BOTH SIDES NOW

70年代、そして80年代に光り輝いた大ヒット曲の、その光沢を際立たせた陰影を今、浮かび上がらせる秘話集。

 

Text by 村上太一

2011年

7月

09日

Vol.50 ビリー・ジョエル「アップタウン・ガール」  2011.7.9

 1983年夏、「あの娘にアタック:TELL HER ABOUT IT」が全米No.1となり、健在ぶりを見せつけたビリー・ジョエル。このヒットの1年前、82年7月には、無名時代からビリーを支えてきた奥さん、エリザベスと離婚しており、さぞかし失意のどん底にいたんだろうという大方の予想を裏切り、83年に発表されたアルバム『イノセント・マン』は、元気いっぱい、“明るくて快活なビリー・ジョエル”が表現されていた。

 そのアルバムからの第一弾シングルが「あの娘にアタック」で、完全復活を印象づけたというわけ。なにしろ、アルバム『ストレンジャー』の大ヒット(900万枚)でポップス界の王者になったビリーは、続く『ニューヨーク52番街』が700万枚、『グラスハウス』も700万枚、と好調な売り上げをあげていたのだが、初期のライブを挟んでリリースされた『ナイロン・カーテン』は200万枚、とプラチナは獲得したものの、ヒット規模は明らかに下がっており、ビリー人気もここまでかと思われていた矢先だったから、このNo.1は大いに先の展望を楽観させるものだったのだ。事実、アルバムは700万枚を売り上げ、完全に以前の水準に戻した。その原動力になったのが、2 ndシングルとしてカットされたこの曲「アップタウン・ガール」の連続ヒットだった(ビルボード最高位3位)。ビリー自身がフォー・シーズンズの影響を認めたこの楽曲、テーマは下町の男の子と山の手の女の子の恋物語。当然、ダウンタウン・ボーイとはビリー自身のことで、“高嶺の花”アップタウン・ガールとはスーパー・モデルのクリスティ・ブリンクリーのことだ。

 じつは、このアルバムの制作にとりかかる直前、ビリーは『ナイロン・カーテン』プロジェクトの終了を機にカリブ界の島でヴァカンスを楽しんでいる。宿泊先のホテルのバーで遊びでピアノを弾いているときに一人の女性と出会う。それがクリスティだった。ビリーはクリスティに一目惚れし、その日からアタックを開始。しかし、ビリーには新しいアルバムを作り上げなければならないという仕事が待っていた。デートもままならない忙しい日常。ビリーは、クリスティへの想いをエネルギーにして仕事に没頭していく。しかし、元々どこにでもある日常を歌にしていくビリーの手法、クリスティへの募る想いがそのまま曲になっていったのもやむを得ないのかもしれない。こうして、アルバムに収まっていった楽曲のなかには“僕は純真な男”と歌う「イノセント・マン」、“いつまでも君を抱きしめていたい”と歌う「ロンゲスト・タイム」、“今夜は二人だけのもの。明日なんてずっと先のことさ”と歌う「今宵はフォーエヴァー」、自分自身を鼓舞する感じの曲「あの娘にアタック」、“恋してる僕だけど、時々不安になるんだ”と歌う「夜空のモーメント」、“僕は誓いを守り続ける”と歌う「キーピン・ザ・フェイス」、といった具合に“口説きソング”がずらりと並んだ。

 そして、その最たるものが、この「アップタウン・ガール」。“山の手の高級な女。彼女は違う世界に住んでいる。裏通りの男なんか、関係ない。でも、彼女は今ダウンタウンの男を求めているんだ。それが僕さ”と歌うこの曲は、非常にわかりやすい告白ソングだし、スーパー・モデルという高嶺の花に恋した風采の上がらない男の歌。要するにビリーは、1枚のアルバムを丸ごと使ってクリスティ・ブリンクリーを口説いたのである。「アップタウン・ガール」は大ヒットになったから、クリスティがラジオをつけるたびにこの曲が流れてきて、しょっちゅう口説かれている気分になってしまうのだから、その効果は計り知れない。しかも、アルバムの収録曲すべてがクリスティを念頭において作られているのだから、「アップタウン・ガール」のヒットがひと段落した後も、次から次へと口説きソングがラジオを通じて聞こえてくるのだから大変だ。

 82年11月に知り合った二人。83年秋から85年春まで、足掛け3年。合計6曲がヒット・チャートをにぎわし、間接的に口説かれまくったクリスティ。このビリーの作戦が見事に当たり、85年3月、ニューヨーク湾に浮かぶヨットの上で二人は結婚した。翌86年1月にはアレクサ・レイと名付けた女の子が誕生している。ハネムーン・ベイビーだ。ちなみに、アレクサ・レイのレイとはビリーが敬愛するレイ・チャールズからとったという。この娘のためにビリーは「ダウンイースター・アレクサ」という曲も作っている。

 愛するクリスティを手に入れたビリーの幸せな時間は9年間続いた。しかし、彼の浮気がもとで94年に離婚している。浮気の相手もまたスーパー・モデル、エル・マクファーソンだった。懲りないおやじなのである。

 ところで、前の奥さんエリザベスのことを歌った「素顔のままで」は、クリスティが嫉妬するという理由で長く封印されていたが、クリスティと離婚して以降はこの封印は解かれている。ただ、新たに「アップタウン・ガール」が同様の理由でお蔵入りしている。ビリーには、辛い思い出が染み付いてしまった曲なのかもしれない。

                          

 

2011年

7月

02日

Vol.49  グロリア・エステファン「カミング・アウト・オブ・ザ・ダーク」 2011.7.2

 1991年3月30日、ビルボード・シングル・チャートのトップにグロリア・エステファンの「カミング・アウト・オブ・ザ・ダーク」が輝いた。彼女の長く苦しいリハビリ生活からの生還を告げた、涙のNo.1だった。

 グロリア・エステファンは、マイアミ・サウンド・マシーンの一員として、長い下積みの末、85年「コンガ」を大ヒットさせて以来、チャートの常連として活躍を続けていた。アルバムを出すごとに人お規模は拡大し、89年の「カッツ・ボス・ウェイズ」では300万枚のセールスとともに好感度も飛躍的にアップ。90年1月には、アメリカン・ミュージック・アワードのホステスに選ばれたり、クリスタル・グローブ・アワードを獲得したり、まさに国民的シンガーに成長していた。ところが、好事魔多し。90320日に事件は起こった。

 グロリアとマイアミ・サウンド・マシーンの面々は、ニューヨーク州シラキューズでのコンサートに出演するため、雪のハイウェイをツアー・バスで現地に向かっていた。ツアー・バスがペンシルバニア州スクラトンにさしかかった時、大型トレーラーと接触。ツアー・バスは大破し、グロリアは背骨を折る重傷を負った。スクラトンの病院で応急処置を受けた後、マンハッタンの病院で4時間におよぶ手術を受け、奇跡的に助かったグロリアは術後の経過も良く、44日には退院。再起不能説を吹き飛ばした。

 死も覚悟したというほどの大ケガからの復活。回復力は神がかり的だったというエピソードも伝わっている。背骨をつなぐ金属ジョイントや、筋骨を補強するパイプも埋め込まれ、90年は自宅療養とリハビリの毎日。そして翌91129日。LAのシュライン・オーディトリアムで開かれた第18回アメリカン・ミュージック・アワードの表彰式で、ライブ・パフォーマンスを披露し、感動の復活を果たすのである。

 その時に歌ったのが、アルバム『イントゥ・ザ・ライト』からの1st シングルとなった「カミング・アウト・オブ・ザ・ダーク」。復活の喜びを神に感謝するという内容のスピリチュアルなこの曲は、ポップ・チャートのみならず、コンテンポラリー・クリスチャン・チャートでも大ヒットとなった。そして、31日には7ヶ月におよぶワールド・ツアーをスタート。それだけに「カミング・アウト・オブ・ザ・ダーク」のNo.1は、大いなる壮行会になったと言えるだろう。

 このワールド・ツアーはもちろん大成功。『イントゥ・ザ・ライト』も大ヒットで、92年に発表されたヒスパニック系長者番付によると、グロリアが4560万ドル、ダンナのエミリオが2580万ドル、足して7140万ドルの収入を2年間であげて、番付2位となっている。ちなみに1位は、言わずと知れたフリオ・イグレシアスで、7700万ドル。すなわちグロリアは、あの“ミスター・ディナー・ショー”に600万ドル足らずの差まで迫っていたほどの成功をあげていたわけだ。

 ところで、グロリアはキューバの出身。キューバからマイアミに渡ってきたのは2歳のときである。だからキューバのことはあまり憶えていないというが、キューバの国民は同胞を大事にする民族で、キューバ人はみな兄弟という考え方がある。マイアミのグロリア宅にお邪魔した際に「今日はキューバの友達とパーティー」というからどんな人が来るのかと思っていたら、ジョン・セカダやマイケル・ジャクソンのダンサーやら、ディズニー・スタジオのシンガーやらとともに、近所のおばさんやおじさん、あげくの果てにはエミリオもグロリアも知らないキューバの人という、友達の友達というレベルの知り合いまで押しかけ、大変なにぎわいに同席したことがある。そういったキューバン・コネクションのなかにいるときのグロリアが、アーティストというより世話焼きのお母さんという印象だった。そして、そんなつながりの延長にあるのだろう。フロリダのウォルト・ディズニーにキューバン・レストラン「ボンゴス・カフェ」もオープン。キューバン・コネクションの拡大にひと役買っている。

                           

 

2011年

6月

25日

Vol.48 ポーラ・アブドゥル「あふれる想い」  2011.6.25

 ポップス界には疾風のように現れて疾風のように去っていくアーティストがいる。ヒット規模の大きさ、ブーム化の動き、そして引きの早さといった点から見れば、さしづめ代表格はポーラ・アブドゥルだろう。

 1988年、ヴァージン・レコードからデビュー。3枚目のシングル「ストレート・アップ」が全米でNo.1になり、以来91年までに6曲のNo.1シングルを放ち、デビュー・アルバムとセカンドを2枚連続して1位にするという駆け足でのスターダム獲得。しかし、92年にエミリオ・エステベスと結婚したのを境に(それが原因ということではないだろうが)活動は一気に縮小し、95年にアルバムを発表して中ヒットは記録したものの、印象から言えば92年以降はお見かけしていないという雰囲気だ。特に90年、91年の盛り上がりが凄かっただけに、その後の活動がいかにも地味に映ってしまったということだろう。そして、そのポーラ・ブームの最大のクライマックスとなったのが、今回取り上げた「あふれる想い」である。

 ところで、ポーラ・アブドゥルは、あまり知られていないが“強い女性”なのである。NBAのLAレイカーズでチアリーダーをしていたときに、ダンスの振り付けに才能を発揮し、デビュー前にはジャクソンズ、ジャネット・ジャクソン、ダン・アイクロイドなどの振り付けを担当してポップス界に名前を知られることになる。もちろん、デビュー後の自身のクリップの振り付けも行っているが、あのプリンスが「バットダンス」の振り付けを依頼したときには多忙を理由に断っている。この「あふれる想い」を収録したアルバム『スペルバウンド』を制作するときにも“全国の女性たちに勇気を与えるものにしたい。これまでの女性らしさの概念を断ち切りたい”ということをコンセプトにし、女性から男性に結婚を迫る「ウィル・ユー・マリー・ミー」、解釈の仕方によってはセックスのおねだりのような「パイプをちょうだい」、簡単には別れ話に応じない「ブロウイング・キッシィズ・イン・ザ・ウィンド」など、女性の新しい生き方を提唱する楽曲が多く収録された。この「あふれる想い」も同様で、積極的に恋愛に向かうポジティブな女性を歌った曲。それが、女性だけでなく男性にも支持されてのNo.1獲得だった。

 この時期のポーラ・シンドロームがいかに凄かったかということを実証するエピソードもある。90年当時のアメリカは、スター選手が宣伝するスニーカー欲しさに殺人まで犯すという“スニーカー殺人事件”が起こっていた頃。その最中にポーラ・アブドゥルがLAギアと1200万ドルでCM契約を結んだというニュースが流れると、殺人事件のあおりで株価を下げていたLAギアがウォール・ストリートで10%も値を上げたというのだ。マイケル・ジャクソンが契約したときでさえ株価は変動しなかったというから、どれほど凄いことかわかろうというもの。ちなみに、このときの契約金はNBAのスター選手並み。またアメリカの雑誌の読者投票で「一番キスしたい女性」をアンケートしたところ、ジュリア・ロバーツなど並みいる美人女優を尻目に21%の得票率でポーラが堂々の1位になったこともあった。

 さて、この曲がヒットしてた頃のデートのお相手がエミリオ・エステベス。「あふれる想い」と「ウィル・ユー・マリー・ミー」を耳元で歌って結婚が決まったという伝説もあるが、結婚後ポーラは肥満に悩み、精神的にもかなりダメージを受けて、ついに94年には離婚。そして復帰作『ヘッド・オーバー・ヒールズ』をリリースするも、96年にはスポーツ用品メーカーのオーナー、ブラッド・ベッカー氏と結婚。またまた引退同然の生活を送ることになる。エミリオとの結婚は積極的にアプローチした末の強い女性らしい結婚だったが、ブラッド氏とのときは見合い結婚のようなものだったようだ。パターンは違ったが、やはり破局を迎え、音楽界に復帰してアメリカの人気オーディション番組「アメリカン・アイドル」の審査員を務めた。

 さて、彼女のキャリアの行方は? それは、彼女の恋の行方の先で定まるのかもしれない。

                           

 

2011年

6月

18日

Vol.47 ダム・ヤンキーズ「ハイ・イナフ」 2011.6.18

 1989年、ナイト・レンジャーを脱退したジャック・ブレイズと元スティクスのトミー・ショウ、それにギタリストのテッド・ニュージェントとドラマーのマイケル・カルテロンの4人で結成したバンドがダム・ヤンキーズ。まあ、スーパー・グループと呼んでもいいだろう。「ハイ・イナフ」は、デビュー・アルバムからの2ndシングルで、90年秋にリリース。91年になってからビルボードのシングル・チャートで最高位3位となる大ヒットとなった。元々、“ダム・ヤンキーズ”すなわち“あほなアメリカ人”というバンド名は、ジョン・ウェイトやジャナサン・ケイン、ニール・ショーンが在籍した“バッド・イングリッシュ”すなわち“悪いイギリス人”に対抗したものだ。ジャック・ブレイズはバッド・イングリッシュのメンバーとは非常に仲が良くて、“ダム・ヤンキーズ”という命名もジャックらしいお茶目ぶりを発揮したものだ。

 さて、ダム・ヤンキーズ結成に至るまでのジャック・ブレイズには、ちょっとした葛藤があった。彼は、ナイト・レンジャー時代に、自らが目指す(あるいはバンドの指向する)ハードロック路線が「シスター・クリスチャン」の大ヒットで否定されて、バラード・バンドとして扱われることを経験していた。しかも、レコード会社はバラードのシングル・ナンバーを強要し、ファンもそれを望むというなかで、バラードを歌っていたメンバーがリード・ボーカルであるジャックの立場を危うくした、という事情もあってバンドの中に不協和音が生まれ、結局解散した経験があったから、ダム・ヤンキーズでは「ハードでポップなロック」路線を追求するはずだった。しかし、デビュー・シングルとなったハードロック・ナンバー「カミング・オブ・エイジ」はTOP40にも入らず、バラードの「ハイ・イナフ」がTOP3になったことで、再びジャック・ブレイズは“バラード”という足かせと戦うことになったのだ。結果から言えば、「ハイ・イナフ」以外は、さしたるヒットに恵まれないまま、ダム・ヤンキーズは自然消滅ということになったのだから、よくよく“バラード”についてない男ということになるのかもしれない。

 ギターのテッド・ニュージェントは“野獣”と言われるほど荒々しいプレイに定評があり、こちらもハードロック派。しかし、テッドはこのバンドの活動以外に、興味深い職をすでに手にしていた。それは、趣味のハンティングの延長にあるもので、ボウガンによるハンティングの専門雑誌「ボウ・ハンター」の編集長という仕事である。加えて、子ども向けのアウトドア・アドベンチャー・プログラムを作ったり、サマー・キャンプのリーダーも務めるなど音楽以外の生活の場をみつけ、「限られたハンティング・シーズンにツアーなんかやってられない。“アウトドア”は僕にとって趣味ではなく人生そのもの」と、音楽活動に制限を設けていた。このことは、ダム・ヤンキーズのプロモーション・スケジュールを大幅に狂わせただけでなく、クリッシー・ハインドやベリンダ・カーライル、ポール・マッカートニーといった動物愛護運動に関わるアーティストたちから敵対視され、一時は「ハイ・イナフ」およびアルバム『ダム・ヤンキーズ』の不買運動にまで発展した。クリッシー・ハインドなどは、雑誌や新聞を使ってテッドに論戦を挑み、いかにハンティングが野蛮な行為であるかということを採算にわたって主張した。テッドにとっては音楽どころではなくなっていたとも言える。

 バラードの亡霊に悩むジャック・ブレイズと動物愛護団体を敵にまわしたテッド・ニュージェント。おまけに、コンサートでサダム・フセインに見立てた人形にボウガンの矢を放つという過激な演出を行ったところ今度はアラブ・ゲリラも敵にまわすことになってツアー・バスに放火されたりと、まさに踏んだり蹴ったりの状況だった。元々、トミー・ショウもジャック・ブレイズも“グッド・アメリカン”であるから“ダム・ヤンキーズ”を演じるには無理があったかもしれない。なんとなく、哀しいヒット曲だ。

                         

 

2011年

6月

11日

Vol.46 ナイト・レンジャー「ドント・テル・ミー・ユー・ラヴ・ミー」 2011.6.11

 1982年7月、中野サンプラザを埋めた満員の観客は予期していない興奮に襲われていた。オジー・オズボーン待望の初来日コンサートだが、本来であればオジーの横には“天使と悪魔”とさえ形容された美貌のギタリスト、ランディ・ローズがいて、華麗なギターを聴かせてくれているはずだった。ブラック・サバス脱退後、自らのバンドを結成したオジー・オズボーンにとって、ひとつの売り物が元クワイエット・ライオットに在籍していた天才ギタリスト、ランディ・ローズだったが、そのお披露目にもなるはずだったこの初来日公演を前に、4ヶ月前の3月に飛行機事故で他界していまい、日本のファンは永遠にオジーとランディの2ショットを見ることはかなわなくなってしまったのだった。誰もが来日は中止だろうと思ったが、オジーはランディの代役としてブラッド・ギルスを指名。ともに来日を果たした。

 コンサートを前にしたオジー・ファンの多くは、当時全く無名だったブラッド・ギルスに対してほとんど期待することもなく、むしろランディのフレーズをこなせるのだろうかと心配すらしていた。ところが、ショーが始まってしばらくすると、ランディとはスタイルは違うもののブラッドの力強いプレイに、観客は酔いしれたのだ。この瞬間が日本のファンとナイト・レンジャーとの初めての接点であっただろう。

 じつは、この来日の時点でナイト・レンジャーのデビュー・アルバム『ドーン・パトロール』は完成間近の状況で、ブラッドはこのツアーが終わったら直ちにナイト・レンジャーのアルバムのフィニッシュにとりかかるという時期だった(このときはまだレンジャーと名乗っていたが)。ところが、オジーはと言えば、「こんなギタリストを俺が手放すわけがないだろう。ブラッドはオジー・バンドのギタリストさ」と話すほどご執心で、事実、ブラッドに対してバンドへの残留を依頼していた。ところが、ブラッドのハラはすでに固まっており、一刻も早くバンドの仲間とアルバムを仕上げたいモードだったから、ジャパン・ツアー終了と同時にファイナルの作業に入り、この年の暮れにはデビュー・アルバム発表にこぎ着けたのだった(日本では翌83年の発売になった)。そして、この曲がそのアルバムからの第一弾シングル、すなわちデビュー曲になった。本国アメリカでは正直に言ってパッとしないすべり出しだったが、日本ではオジー・バンドでのブラッドの知名度も手伝って、デビュー直後から売れ始めた。当時のトップ・アイドル、シブがき隊のヒット曲「ZOKKON命」のイントロにパクられたことも洋楽シーンでは大きな話題となったりするなどして順調に日本での地位は固またいったのだが、アメリカでの不振を脱することはできず、日本との人気の格差が徐々に顕著になっていった。

 そんな折り、83年にはナイト・レンジャーの初来日公演が実現。8本指奏法(オクトパス奏法)を操るギタリスト、ジェフ・ワトソンの“速弾き”と、トレモロ・アームを効果的に使う“味弾き”が持ち味のブラッド・ギルスという2枚看板と、エモーショナルなオーカル・スタイルのジャック・ブレイズのフロント3人の強烈な個性が売りのナイト・レンジャーの魅力はライブでこそ生きると、当時の日本のレコード会社CBSソニーは考え、新宿厚生年金会館で行われたライブを丸ごとビデオ撮影することを決め、彼らのジャパン・ツアー終了後、大規模なフィルム・コンサート・ツアーを計画した。そして、実際にビデオ・シューティングが行われ、北は北海道から南は鹿児島まで全国でのフィルム・コンサートのスケジュールが組まれていったのだが、その肝心のライブ・ビデオはナイト・レンジャーのマネージメント・オフィスが若干の手直しがあるという理由でアメリカに持って帰ってしまった。日本の関係者の間では大騒ぎになったが、結果的にはそれがナイト・レンジャーのアメリカでの人気爆発につながったのだった。

 日本から持ち帰ったライブ・ビデオを手直ししているときだった。たまたまその模様を目にしたMTVの関係者が、それをMTVで放送することを提案。マネージメントとCBSソニーの話し合いにより、日本でのフィルム・コンサートより先にMTVでの放送が決まり、知名度のあまり無い新人としては異例の1時間スペシャルの枠が用意され、それをきっかけにナイト・レンジャーは大ブレイクしていくことになる。ただ、フロントマンのジャックではなく、ドラムスのケリー・ケイギーが歌うバラード・ナンバー「シスター・クリスチャン」が大ヒットしてしまい、以後ナイト・レンジャーはバラードの名曲を作り続けなければならなくなるという皮肉はあったが。

 ちなみに、日本でのフィルム・コンサート・ツアー、そのクライマックスの中野サンプラザはフィルム・コンサートにもかかわらず満員となった。

                           

 

2011年

6月

04日

Vol.45  ウィルソン・フィリップス「ホールド・オン」  2011.6.4

 1990年6月1日、この日武道館では19回目となる東京音楽祭が開催された。ボビー・マクファーリン、シニータ、ビル・チャンプリン、ANA、14カラット・ソウルなど、いつになくコンペティターが揃ったこの大会でグランプリを獲得したのが、ウィルソン・フィリップスだった。

 アルバムをアメリカでリリースしたばかり。デビュー曲でもあるグランプリ参加曲「ホールド・オン」が、ビルボード・シングル・チャートをグイグイ上がっている最中だったから、新曲による参加という大会の規定にてらせば、ぎりぎりセーフというところだったかもしれない。ともあれ、日本でのグランプリ獲得というおみやげはアメリカのチャートも後押しし、6月9日にとうとうNo.1に輝く。これは、ビーチ・ボーイズの「ヘルプ・ミー・ロンダ」が全米No.1になってから25年目の快挙となった。なぜビーチ・ボーイズを引き合いに出すかというと、みなさんご承知の通り、ウィルソン・フィリップスの3人のうち2人、カーニーとウェンディの姉妹がビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの娘だからなのだけれど、実のところ、ブライアン・ウィルソン復活の裏にはこの姉妹の存在が大きかったと言っても良さそうなのだ。

 ウィルソン・フィリップスは、ウィルソン姉妹と、ママス&パパスのジョン&ミッシェル・フィリップスの娘であるチャイナから成る3人組だが、最初はこれにママ・キャス・エリオットの娘ヴァネッサ・エリオットを加えた4人組だった。この4人で録ったデモが大プロデューサー、リチャード・ペリーの耳にとまり、デビューへとこぎつけるのだが、その過程でヴァネッサは“声が合わない”という理由ではじかれている。3人にしてみれば、泣く泣く友達を仲間はずれにしてデビューしたのだから成功しないわけにはいかなかった。しかも、リチャード・ペリーは最初、彼女たちをポインター・シスターズのように仕立て上げようとしたという。ところが、最終的なプロデュースを担当したグレン・バラードと彼女たちの話し合いの結果、ポップ・ハーモニーでいこうということになり、「ホールド・オン」は誕生する。そして、見事に大成功をおさめたというわけだ。この成功で、ウィルソン姉妹は、それまで遠ざかっていた父親、ブライアンと再び接触することになったのだった。

 ブライアンは、カーニーが2歳の時に「ディス・ホール・ワールド」のレコーディングに参加させるほど子煩悩だったが、その後ドラッグで精神を病み、四六時中カウンセラーの世話になる状態に陥ってしまう。そして、1979年に彼女たちの母親マリリンと離婚したのをきっかけに、娘2人とは没交渉になってしまったのだった。カーニーによれば、彼女はデビューにあたり父親の意見を聞きたがったりサジェスチョンを求めたりしたが、その頃のブライアンの態度は素っ気なく、まるで自分たちを避けているように見えたという。それは彼女たちが有名になった後も続いたそうだが、それでもメジャーになればなるほどプレッシャーを感じたり周囲の思惑に振り回されたりすることが増え、彼女たちはブライアンのサジェスチョンを必要とすることが多くなったという。そして、自分たちに振り向いてくれない父親に対して、カーニーは歌でメッセージを送ることを決意する。2 ndアルバム『シャドウズ・アンド・ライト』に収められた1曲「フレッシュ・アンド・ブラッド」で♪パパが私たちに連絡する妨げになるものは何も無い。あなたを笑わせたい♪と歌い、ついに93年にはカーニーとウェンディが揃ってブライアンのセルフカバー「ドゥ・イット・アゲイン」を共演。97年にはウィルソン・フィリップス解散後の2人の再出発アルバム『マンデイ・ウィズアウト・ユー/ウィルソンズ』をブライアンが完全バックアップするまでになった。「ホールド・オン」が親子の絆をつなぎ直したのだった。

 

                           

 

2011年

5月

28日

Vol.44 ジェーン・チャイルド「ドント・ウォナ・フォール・イン・ラヴ」  2011.5.28

耳のピアスから鼻のピアスに連なったゴールドのチェーン。くるぶしまで伸びた長い髪を細かく編み込みつつ、頭のてっぺんはツンツンとおっ立ったヘア・スタイル。サリーのようなルーズなドレス。どれをとっても「個性的」という以上の衝撃であったジェーン・チャイルドの登場は1990年のことだった。

 カナダのトロント出身で、若い頃からアーティストになると決めて、ようやくデビューの幸運をつかんだのは89年になってからだった。そして、90年にはデビュー・アルバムを発表、第一弾シングル「ドント・ウォナ・フォーリン・ラヴ」がビルボードのシングル・チャートで2位まで上がり、一躍注目されることになった異色のシンガー、ジェーン・チャイルド。まさに「異色」という言葉がついてまわったジェーンのキャリア。まさに不思議な女性アーティストであった。

 さて、才能がありながらデビューまで時間を要したのには理由がある。彼女は何もかも自分でやらなければ納得しないタイプで、デビューに際しても、セルフ・プロデュースで、自分が作った曲を自分の思うように歌いたいという要求を出したという。それが、まったく知名度のない新人からの要求だったから、各レーベルは彼女との契約に慎重になった。加えて、奇抜なファッションと奇抜なルックス、彼女の作り出す曲はまさにボーダーレスで、ロックもあればR&Bもあるし、ダンス・チューンもあれば、深いメディテーション系の曲もあるという、良く言えばバラエティ豊か、悪く言えばまとまりがないということで、なかなかデビューのチャンスをつかめないでいたのだ。そんな彼女にとって幸運だったのはマドンナのヒットとシニード・オコナーの登場。今で言えば「自立した女性」ということになるのだろうが、90年当時の感覚で言えば、「生意気な女」「理屈っぽい女」、あるいはノン・ジェンダー・タイプの女がウケていた時期だったから、ワーナーのA&Rマンはこの時代、こういった女がウケるかもしれないと考えたのだった。そして、ジェーンに対して、全曲自作でセルフ・プロデュースによるアルバム作りを認め、好きなように創作活動をして良いというお墨付きを与え、デビューということになったわけだ。

 こうしてジェーンは一人でコツコツと作りためたデモ・テープを完成させる仕事に没頭し、アルバムのリリースを迎えた。ワーナーはプロモーションの一環として「ドント・ウォナ・フォーリン・ラヴ」をシェプ・ペティボーンにミックスさせ、クラブ方面でのプロモーションを強化、あたかも「ダンス・シーンに強力な新人登場」といったうたい文句で売り出しを図った。その狙いは当たり、ジェーンは白人でありながらR&Bチャートを駆け上るという快挙を演じたが、次第にアルバムの他の曲が紹介されるにつれて、R&B方面ではこの曲だけの一発屋的な扱われ方をしたのも事実。また、ダンス・ビートで変わられていながら、その後ろに流れるロック・フィーリングに反応したアメリカ・オルタナティヴ・ラジオが面白がってオンエナしたことで、オルタナ・チャートを上がったりもした。なかなかポップ・チャートに波及しなかったが、一度チャート・インすると、あとはあれよあれよという間にチャートを駆け上り、4月には2位になっている。この年を代表するヒットになったのだ。

 このジェーンの異色ぶりは、とにかく半端じゃない。経歴的に言えば、ポップ・フィールドでデビューする前はカナダでオペラの合唱団の一員であったし、プロダクションからソングライトまですべてを独学で学び、誰の影響も受けていないと言い切るほど、ポップ・フィールドとは無縁の存在。インド文化に傾倒し、「わたしは仏像と会話ができるし、空気の流れを読み取ることができる」と公言する変わり者ぶりを示し、自分のなかから沸いてきた音楽のイメージを決して変えようとはしなかった。それがアバンギャルドなものであっても、ヘヴィメタル的なものであっても正直に音楽にしていく彼女の姿勢は、ビジネスを優先するポップ・フィールドでは長続きするはずもなく、3年のブランクの末に2nd アルバムがリリースされたが、彼女のキャリアはそこまで。デビュー曲の鮮烈なヒットの印象を残してポップ・フィールドから消えていった。じつは90年にプロモーションで来日した折、般若心経にいたく興味を示し、お経のテープを買って帰るほどの執着を見せたが、3年後に発表された2ndアルバムの収録曲「サラスヴァティ」に、お経のリズムだけでなく、その精神世界までが生かされているのを見てもわかる通り、ジェーン・チャイルドはアーティストでありながら哲学者の側面をも持っていた。時代の要求に合わなかったのかもしれないが、ある種の天才である。

 

 

                           

 

2011年

5月

21日

Vol.43   オリータ・アダムス「ゲット・ヒアー」  2011.5.21

 1990年に遅咲きのデビューを果たし、この「ゲット・ヒアー」で全米シングル・チャートTOP5の実績を持つシンガー、オリータ・アダムス。ティアーズ・フォー・フィアーズのローランドとカートに見出されたというエピソードはあまりにも有名だが、事実はよく言われているようなシンデレラ・ストーリーとは少し異なっている。

 オリータは、5歳の時から聖歌隊で歌い、11歳の時にはすでにピアノの弾き語りを始めていたというほどの実力派。しかし、そんな実力派が“埋もれてしまう”のもよくある話で、彼女はニューヨークやLAをクラブ・シンガーとして転々とするうちカンサス・シティに落ち着く。そこのクラブには、コンサートを終えたアーティストたちがよく顔を出し、みんなが「君の歌は素晴らしい」とほめたそうだ。レコードを作ろうという話もいくつもあったが、どれも実現せず。ある時などは、ジョージ・ベンソンの紹介でアリフ・マーディンとデモを録り、アトランティックに売り込みをかけるところまでいきながら駄目。“みんな口先ばかり。もう踊らされるのはやめよう”と、オリータは思ったという。ティアーズ・フォー・フィアーズが声をかけてきたのはそんな時だったから、最初は彼女も“話半分”くらいに考えていたようだ。

 ところが、ティアーズ・フォー・フィアーズのローランドとカートの申し出は、自分たちのアルバムにバックアップ・シンガーとして参加することとツアーへの同行を求めたもので、二人はレコーディングをひかえた忙しい身だったが、ロンドンからカンサスまでわざわざ彼女に会うためだけにやって来た。その熱意にほだされ、オリータは彼らのレコーディングに参加することを決意したのだった。この時オリータはすでに30代半ばになっていたが、あとはもうトントン拍子である。ティアーズ・フォー・フィアーズの「シーズ・オブ・ラブ」の大ヒット、ツアーの大成功、ソロ・デビュー・アルバムのレコーディング、そして「ゲット・ヒアー」の大ヒットと進んでいくことになる。

 このような才能が登場したとき、アメリカのレコード会社は柳の下のドジョウを5匹は探すものだけれど、このときばかりはもっとシビアな騒動に発展した。つまり、オリータのような才能に接していながら発掘できなかったアメリカのA&Rマンの無能が叫ばれたのだ。特にブラック/アーバン系の分野では担当役員のクビが飛んだり、A&Rマンがすげ替えられたり。音楽マスコミも皮肉たっぷりに“イギリスが発掘したアメリカの才能”と、はやし立てたりもした。そんなこともあって、「ゲット・ヒアー」に対するアメリカの業界の巻き返しは強烈で、いつの間にかアメリカっぽいシンデレラ・ストーリーのみが残ったという雰囲気だ。

 ところで、この「ゲット・ヒアー」、欧米ではヒット実績以上に心に残る1曲となっている。この曲がちょうどヒットし始めたときに湾岸戦争が始まり、91年1月20日にはイラク軍に捕らえられた多国籍軍の捕虜の映像が全世界に放送されて反イラク感情が世界中にわき起こるなか、チャートを上昇していった。「ゲット・ヒアー」は、捕虜の無事を祈り一刻も早い帰還を願う歌として連日ラジオで放送されたのだった。特にアメリカのTOP40ステーションでは、湾岸戦争の戦況や周辺情報と捕虜の安否確認のニュースを伝えるたびに捕虜やその家族に体する祈りと激励の曲としてこの曲を流し続けたし、無事捕虜が解放された際にそのニュース映像のバックにこの曲を使用する曲もあった。♪帆船でもマジック・カーペットでも、アラブの男のように砂漠を越えてキャラバンでも、どんな方法でもかまわない。ただ来てくれさえすれば♪という歌詞に因るところが大きかったのだろう。

 その後、ティアーズ・フォー・フィアーズは、ローラードとカートが別れ、オリータとも没交渉になってしまい、オリータのアルバムはスチュワート・レヴィンやマイケル・J・パウエルの手に委ねられた。素晴らしい歌声には磨きがかかっているものの、ポップ・チャートの観点から見れば、“卒業”したとも言えそうだ。

                          

 

2011年

5月

14日

Vol.42  マライア・キャリー「ビジョン・オブ・ラブ」  2011.5.14

1990年に彗星の如く登場し、一躍ポップス界のディーバとなったマライア・キャリー。デビュー時のシンデレラ・ストーリーは伝説にすらなっている。すなわち、「デモテープをトミー・モトーラSME社長に手渡したところ、トミーはパーティーの帰りの車の中でそれを聴き、急いで引き返してパーティーの席上で契約を約束した」というもの。もちろん、この逸話は事実なのだが、デビューまでのいきさつにはもっと深いストーリーがある。マライアがデモテープを作り始めたのは、正確なことはわからないが、86年頃のこと。それからデビューまでの4年間に彼女がデビューしていきなりディーバの座を掴むことが約束される状況が整っていたのだ。

 トミー・モトーラ社長は、社長として特定のアーティストのスター化に寄与したということがなかったので、一部のマスコミはホイットニー・ヒューストンを当てたアリスタのクライヴ・デイヴィスと比較して“お飾り社長”と皮肉ったりもした。それだけに、トミーは“秘蔵っ子”を欲しがっていたとされている。その一人がマルティカ。88年にデビューし、2 nd シングルを全米No.1にしたことで次作に注目が集まるなか、89年のソニー・グループ全体のコンベンションではマルティカがプライオリティ・アーティストとして紹介された。じつは、その時すでにマライア・プロジェクトは動き出しており、89年の時点でデビューすることも可能だった。が、それを止めたのは他でもないトミー・モトーラだった。“90年代のディーバ”として売り出すにあたり、90年デビューということにこだわったトミーは、敢えてデビューを遅らせ、“90年にデビューした20歳”というキャッチフレーズのもと、“90年代はマライアの時代”という戦略を組み立てていった。

 かくして、ナラダ・マイケル・ウォルデンに始まり、ヴァーノン・リード、オマー・ハキム、マイケル・ランドゥ、マーカス・ミラー、リチャード・ティー、リック・ウェイクといったトミー・モトーラ人脈が集められ、慎重にデビュー・アルバムは作られた。

 しかも、トミーが中心になって徹底的にイメージ作りも行われた。マライア自身は、元々社交界とは縁遠い生まれ。だから、スーパーで3,000円程度で売っている衣装を身にまとってステージに上がる、なんてこともしばしばだったのを、トミーが華やかな場に連れ回して意識改革をはかった。また、インタビューなどは想定問答集を作って“こう聞かれたら、こう答える”といった教育を施し、徹底的な管理システムのもと、マライアはデビューしたのだった。このトミーの作戦が功を奏したのかどうかは別にして、デビュー曲「ビジョン・オブ・ラブ」は見事全米No.1に輝き、その後カットする計4枚のシングルもすべてNo.1になるという、破格のデビューとなり、そのシンデレラ・ストーリーがよりドリーミーに流布されたわけだ。

 トミーが、ただひとつ、あまり口を挟まなかったのが、音作りに関してだったと言われており、1作目のナラダ・マイケル・ウォルデンも2作目のアルバムを手がけたウォルター・アファナシェフも、基本的にはマライアの意向を尊重したという。この時すでに、トミーとマライアはいつ結婚してもおかしくない状況にあったが、マライアがあまりにも早くスターダムにのし上がってしまったこともあって、結婚の時期は慎重に選んでいたようだ。結局、結婚したのは、アルバム『MUSIC BOX』を制作する最中、93年のこと。しかし、結婚を機にトミーの“カゴの鳥”囲い込み作戦はさらに激化し、音楽界で自我を持ち始めヒップホップ界との交流が深まったマライアが、ついに“切れて”98年に離婚。その後のマライアは、言動もファッションも、トミーの管理下にいたときとは比べようもなく奔放になっているが、それがじつは彼女の“地”であるのかもしれない。それでもトミーにとってマライアを発掘/売り出したという実績は残ったわけだから、「ビジョン・オブ・ラブ」は双方にとって大きな意味を持ったことになる。

 ちなみに、トミーが次に入れ込んだのはジェニファー・ロペス。その活躍ぶりは周知の通りだ。

                          

 

2011年

5月

07日

Vol.41 ハート「愛していたい」  2011.5.7

アンとナンシーのウィルソン姉妹で有名なハートは、1963年結成。ただし、この時点ではまだ姉妹は未参加で、70年にアンが加わり、72年に“ホワイト・ハート”と名乗り出し、74年にナンシーが加わって“ハート”となった。そのハートの代表曲のひとつが、この「愛していたい」。「ディーズ・ドリームス」と「アローン」が全米No.1になっているから、最高位2位のこの曲はハートにとっては3番目のヒットとも言える。

 この曲の原題を直訳するとかなり危ない。いわく“私がしたいのはあなたとのセックスだけ”ということになるのだけれど、この曲のヒットのおかげで、アン・ウィルソンは長い間、業界関係者から「あなたが一番やりたいことは何ですか?」とか「好きなことは何? 愛する相手に何を求める?」といった質問、あるいはもっと単刀直入に「この歌の主人公と、アン自身を重ね合わせると?」なんていう質問まで、ありとあらゆる好奇の目を浴びせかけられてきたそうだ。

 この曲の作者は、シャナイア・トゥエインの旦那としてもお馴染みのマット・ラング。マットは、この曲を男性用に作ったという。もっと具体的に言えば、ドン・ヘンリーのヒット・アルバム『エンド・オブ・イノセンス』用の楽曲として作った。それを、アン・ウィルソンが気に入って、マット・ラングに頼み込んで譲ってもらい、女性用に歌詞を書き直してレコーディングしたという、いわくつきのナンバーである。しかも、歌の内容はべつにセックス礼賛や奔放な女性の歌というわけではなく、“子どもが欲しいからセックスをしたい”という、切実な女性の叫びを歌ったものだったから、セックスがらみの質問ばかり浴びせられ、アン・ウィルソンは辟易としたに違いない。ところが、ハートにとっては世界戦略を実行するうえで、さらなるアンハッピーなニュースが待っていた。

 この曲がヒットし始め、世界中でオンエアされるようになり、いよいよヨーロッパ・ツアーという矢先にイギリスとアイルランドでこの曲が放送禁止指定曲になってしまったのだ。メンバーのハワード・リースは、この処置に怒り心頭。「曲の内容をよく確かめもせずに、勝手な判断で放送禁止にするなんてひどい」と、イギリス、アイルランド両国の当局宛に抗議声明を出したほどだったが、当然それは受け入れられず、悔しがったという。また、イギリスでの禁止を受け、マレーシアとシンガポールも放送禁止処分とした。すっかり“卑猥な曲”として有名になってしまったわけだ。

 ところが、こうしたニュースが流れ始めてから、アメリカ国内でのシングル盤の売れ行きは加速。ついにハート唯一のゴールド・ディスクを獲得することになる。この時期トップに君臨していたのが、シングルでありながらダブル・プラチナムをとったマドンナの「ヴォーグ」であったことを考えると、最高位2位といっても「ディーズ・ドリームス」や「アローン」をしのぐヒットであったことがわかる。だからこそ、“アン・ウィルソンはセックスの歌を歌う奔放な女性”というイメ=ジがついてしまうほどにインパクトが強かったのだ(ちなみに、放送禁止になったとは言え、UKチャートでもTOP10に入るヒットを記録している)。

 ところで、アン・ウィルソンが切実に「子どもが欲しい」と考えていたことをファンは9ヶ月後に思い知ることになった。91年2月、アンは生まれたばかりの女の子を養子にとっている。そして、この娘をかわいがり、91年6月にはディズニーのチャリティー・アルバム『フォー・アワー・チルドレン』に参加。ナンシーとのデュエットで「オータム・トゥー・メイ」を提供し、子守唄をしっとりと歌う母親の姿を印象づけた。この娘マリー・ラモローはいまでは成長し、アン・ウィルソンのプライベート・ライフの重要なパ−トナーになっている。そろそろ“セックスは好きですか?”という、不躾で失礼な質問からも解放されていい頃だろう。

 

                           

 

2011年

4月

30日

Vol41  アニタ・ワード「リング・マイ・ベル」  2011.4.30

1979年6月、無名の新人がビルボード・シングル・チャートの頂点に立った。アニタ・ワードである。彼女のデビュー曲「リング・マイ・ベル」は、発売当初から売れ始め、あっという間にNo.1になった。ゴスペルのコーラス隊出身で、いわゆる歌い上げパターンのボーカルを得意としていた彼女が、一躍ダンス・フロアの主人公に躍り出た瞬間であった。

 ところが、じつはこの曲、元々は当時11歳になったばかりの天才少女歌手として業界が争奪戦を繰り広げていたステイシー・ラティソーのために書かれたものだった。

 この曲の作者はフレデリック・ナイト。ブラック・ミュージック界に君臨する大物で、コンポーザーでありプロデューサーであり、シンガーであり、マネージメント・オフィスの経営者でもある。フレデリックが自分のプロダクションにステイシーを迎えるべく活動している最中で、フレデリックはこの曲をステイシーのデビュー曲として用意していたのだ。その内容は子どもたちが電話で交わしている、他愛のない会話を歌にしたものだった。ところが、ステイシーは別のプロダクションにとられ、この曲はお蔵入りとなった。

 一方、アニタのほうはゴスペル色の強いデビュー・アルバムを制作し終わっていたが、プロデュースを担当したフレデリックが「まったりとした曲ばかりではヒットが見込めない、あと1曲アップテンポの曲が必要だ」と主張し、この曲を引っぱり出してきたのだった。ただ、アニタはすでに22歳。子ども同士の電話の会話では、あまりにも無理がある。そこで、フレデリックが大人バージョンに歌詞を直して録音したのがこの曲である。フレデリックの思惑は見事に当たり、この曲に引っぱられてデビュー・アルバム『ソング・オブ・ラヴ』もトップ10に入るヒットを記録した。アップテンポと言える曲は、アルバム中この曲だけだったにもかかわらず、だ。

 

 さて、大人向けに歌詞を直してヒットしたこの「リング・マイ・ベル」だが、アニタ・ワードは当初、何処の誰だかがよくわからず、謎の新人歌手といった雰囲気を漂わせていたからだろう、この歌詞が曲解されることになる。子どもが歌えば「私の電話を鳴らして」「私に電話して」というそのままの意味だが、ある地域では「ベル」というと隠語で女性の秘部を表す意味もあったから、「リング・マイ・ベル」は隠語的にいうと「私の秘部を鳴らして」つまり「私を感じさせて」となる。それが一部のアメリカ・メディアで伝えられると、その部分だけが誇張されて日本に伝わった。だから、日本では一時「セックス・シンボル、アニタ・ワードが歌う官能のヒット曲」といった扱いで紹介され、歌詞をすべて隠語で表現してポルノ小説まがいの解釈を行うメディアも出たほどだ。そのせいかどうか、この曲を女性からのセックスの誘いの歌として一部では大評判になったりもした。

 

 日本においてこの曲は、おもにディスコでのヒットになった。アメリカでNo.1を獲得する前から日本のディスコ・フロアではこの曲がさかんにオンエアされ、ヒット状況が作られていた。そこに、新宿・渋谷のディスコを中心にある流行が起こり、一気に火がついていった。その流行とは、小さなベル型のキーホルダー。もとはと言えば、当時のレコード会社がノベルティのひとつとして各ディスコに配布したものだが、それをディスコの常連客たちが腰に付けて踊り始めた。当然、曲に合わせて降られる腰の動きにつられて、このベル型のキーホルダーがチリンチリンと音を出す。それが可愛いということで、あっという間に広まり、全米でNo.1になった頃には全国のディスコで「チリンチリン」パフォーマンスが展開されていた。

 

 この曲のプロモーションにはもうひとつ、笑えない笑い話がある。先のベル型キーホルダーもそうだが、この曲をラジオでオンエアするための意識付けのノベルティとして、「鈴虫」が考案された。カゴに入れた鈴虫を配布して、チリチリと鳴くたびにこの曲を思い出してもらおうというわけだ。当時のレコード会社CBSソニーに、ある日300におよぶカゴが搬入された。中には、生きた鈴虫が入っている。その日以来、ラジオの担当者には出社と同時に鈴虫にエサをやるという日課が追加された。毎日毎日、飼育を繰り返しつつ、少しずつラジオ局に配布したのだが、地方向けにまとめてエア便で送ったため、地方営業所に到着したときには大半が死んでいたという。さらには、社内からも鳴き声がうるさいとか、エサが腐って臭いという苦情が相次ぎ、極めて評判の悪いプロモーションになってしまったのだった。

 命を粗末にしたバチが当たったのか、全米No.1の割には、日本でのオンエアはいまひとつだった。

                           

 

2011年

4月

23日

Vol.40  プリンス「バットダンス」 2011.4.23

“殿下”プリンスにとって「ビートに抱かれて」「レッツ・ゴー・クレイジー」「キッス」に続く、4曲目の全米No.1ソングとなったのが、この「バットダンス」。言わずと知れた1989年夏の大ヒット映画「バットマン」のテーマ曲である。

「バットマン」は60年代にテレビ・シリーズとして放送され、日本でも人気を博していたアメリカン・コミックだが、アメリカにおける「バットマン」人気は日本のそれとは比べものにならない。“バットマニア”という言葉があるほどのディープな人気を誇り、「スタートレック」と並んでマニアックなファンが多いシリーズだ。その映画化(リメイク版)ということだから、公開前から話題性は抜群だった。が、プリンスがこの話題性にのって売れたということではなく、むしろ「主題歌をプリンスが担当した」ということが話題性を煽った形になった。「バットマン」からイメージする古臭いアクション・ムービー・ミュージックではなく、映画のキャストであるマイケル・キートン、ジャック・ニコスルソン、キム・ベイシンガーのセリフをサンプリングで拾って、新しいストリート・ビートに作り上げたのだから。映画はおかげでファースト・ウィークエンドの興行収入にして4,270万ドルを稼ぎ出し、当時の新記録を作ったほど。このヒットによって「バットマン」の映画シリーズ化は決まったわけだから、つくづく最初のインパクトは重要だと思わせられる。

 

ところで、昔から人気があった「バットマン」だから、当然それにからんだチャート・ヒットもある。かつてテレビ・シリーズをやっていた頃、66年から67年にかけて5曲のバットマン・ソングがビルボード・シングル・チャートに登場している。そのなかにはジャン&ディーンの楽曲もあり、このテレビ・シリーズの人気の根強さがわかる。「バットマン」のオリジナルは30年代のものだが、その当時のコミック本は保存状態が良ければ3万ドルの値がつくほどのレア・アイテム。この伝統を受け継いで89年の映画版からもいろいろなアイテムがオークションにかけられており、そろそろプリンスの「バットマン」関連グッズに高値がつくようになっているかもしれない。

 

映画「バットマン」は、プリンスのプライベート・ライフにも大きな影響を与えたようだ。

「バットマン」クランク・インまでのプリンスの“彼女”はシーナ・イーストンだった。サントラ・プロジェクトでも彼女とのデュエットを行い、仲睦まじいところを見せていたが、「バットマン」に関わってからのプリンスの興味は主演女優キム・ベイシンガーに向かい、シーナはあえなく捨てられた感じ。91年にアルバム『ホワット・カムズ・ナチュラリー』のプロモーションのため来日したシーナは、プリンス絡みの質問をいっさいシャットアウト。そのピリピリしたムードから、彼女にとってプリンスがいかに大きな存在であったかがわかるほどだった。

一方、新恋人となったキム・ベイシンガーとはスタジオにこもって「スキャンダラス・セックス・スイート」を完成させた。キムのベット・トークとも言われたこの曲は、さぞかしシーナ・イーストンをカリカリさせたことだろう。しかし、このキムとの仲も長くは続かない。もともとが大人同士のおアソビといった感覚で、プリンス、キムとも「バットマン」に続く仕事に忙殺されるなか、2人の仲は自然消滅となった。まぁ、プリンスにとってはた〜くさんいる“ガールフレンド”のひとりだったということか。そのプリンスが“本気”になったのが92年のマイテとの出会いだったから、いずれにしてもシーナには勝機はなかったということになる。

 

そのプリンス、93年になって名前を放棄。シンボル・マークのみになり、“ジ・アーティスト・フォーマリー・ノウン・アズ・プリンス”と呼ばれるようになったが、その後名前を復活させ、主戦場をネット界に移したりした。「既存のレーベルでは僕の創作意欲は満たせない」というのが彼のいい分だったが、ポップス界における影響力もそれによって小さくなってしまったことは否めない。

                           

 

2011年

4月

16日

Vol.39 シニード・オコナー「愛の哀しみ」 2011.4.16

「愛の哀しみ」はシニード・オコナーにとって人生を一変させる大ヒットになった、と1990年度のTVアワードの報道は伝えている。というのも、シニードは87年にイギリスで『ザ・ライオン・アンド・ザ・コブラ』というアルバムでデビューを果たしているものの、そのメッセージは批判的な内容で一般にはウケることなく、コア向きなアーティストに過ぎなかった。が、90年に発表したアルバム『蒼い囁き・I DO NOT WANT WHAT I HAVEN’T GOT』では一転して“静謐なサウンド”を作り、プリンスが85年にザ・ファミリーのために書いたこの「愛の哀しみ」をSOUL II SOULのネリー・フーパーと共同プロデュースしてシングルカット、全米・全英ともにNo.1にしてしまったのだから。しかも、MTVアワードでは年間最優秀、最優秀女性、最優秀ポスト・モダンのビデオ賞を獲得。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでスターダムにのし上がったからだ。

 もっとも、この曲のヒットは人生を一変させるだけでなく、シニードの奇人ぶりを浮き立たせることにもなった。彼女自身にとっては奇行でもなんでもなく、ただ自分に正直な言動をしただけだったが、アメリカの業界は当時23歳のこの女性に振り回されっぱなしとなった。

 そもそも、この曲がヒットする下地は、リリース前からあるにはあった。89年のグラミー賞ではベスト・フィメール部門にノミネートされ、授賞式では「アンディカ」を歌って実力を知らしめているし、アルバムのリリース前には「ハッシャ・バイ・ベイビー」というアイルランド映画に助演女優として出演し、サントラ曲のプロデュースも担当。アメリカでブレイクする前にはBBCチャートのトップを独走という“キャッチコピー”もあった。

 だから、ヒットしたこと自体は当然という受け止められ方だったが、その後が大変だった。まずはMTV授賞式で検閲問題に対し“人種問題と同様の悪行”と切って捨て、ミュージシャン仲間からは賞賛されたものの、アメリカ当局のブラック・リストにのることになり、またアメリカ国内のイベントに際し「自分はアイリッシュだからアメリカ国歌を歌うことはできない」と頑に拒否し、業界内部の保守派にも嫌われ始める。そして、MCハマーとの大舌戦に突入した。

 当時、こちらも飛ぶ鳥を落としまくっていたMCハマーは、自己を貫くシニードを“単なるワガママ娘”と見ており、「国歌も歌えないようなヤツは、さっさとダブリンに帰れ。何なら飛行機代はオレが払ってやる」と毒づいた。するとシニードは本当にダブリンに帰り、チケット代36万円の請求書を彼に送りつけた。ビックリしたMCハマーは、言い出してしまった手前引くに引けず、36万円を肩代わりにしている。ところが、数ヶ月後、シニードは涼しい顔でLAに舞い戻ったのだ。怒るMCハマーに対して、彼女は「誰にも私の行動を規制できない。LAに私を必要としている人がいるから来ただけ」とかわした。

 さらには、返す刀でエアロスミスに対して「彼らの音楽は暴力礼賛主義を煽り、若者を堕落の道へ引きずり込むもの。ブードゥー思想をも助長する危険な音楽」と批判。スティーヴン・タイラーをあきれさせている。この発言は明らかに間違った調子外れのもので、これをきっかけにアンチ・シニード派にまわった業界関係者も多かった。

 その後も問題発言を繰り返し、引退宣言まで行ったが、めげることもなく、その後もアルバムをリリースし続け、レーベルを渡り歩きながらも、2000年6月にはアルバム『生きる力:FAITH&COURAGE』で復活を遂げている。ただ、メジャー・マーケットでの成功という観点から見れば「愛の哀しみ」が彼女にとって唯一のビッグ・ヒットであり、“一発屋”のありがたくない称号を付けられることになった。

 この大ヒットが「彼女の人生を一変させる」大ヒットという報道は、当然その後に輝かしいチャート・ヒットの連続を見ていたのだが、エキセントリックな言動が目立ってしまったという、別の意味で人生を一変させた曲になってしまったのだった。

 

                           

 

2011年

4月

09日

Vol.38 マドンナ「ライク・ア・プレイヤー」 2011.4.9

1989年、オリジナル・アルバムとしては『トゥルー・ブルー』以来、3年ぶりの新作としてリリースされたアルバム『ライク・ア・プレイヤー』は、文字通り衝撃的なヒットとなり、アルバムは6週連続No.1、300万枚を超えるセールスを記録した。そして、そのタイトル曲は、アルバムからの1 st シングルとして、マドンナにとっての7曲目の全米No.1となり、シングルとしては初めてプラチナム・ディスクを獲得するヒットとなった。

 マドンナと言えば“お騒がせアーティスト”というイメージがあるが、本当の意味で“お騒がせアーティスト”と言われ始めたのも、この「ライク・ア・プレイヤー」あたりだった。この頃、マドンナはインタビューのなかで「私は人を驚かせるのが好き」と語っているが、この「ライク・ア・プレイヤー」にも人を驚かせるアイデアを盛り込んでいた。なんと、ジャケットに匂いをつけたのだった。日本人には親しみのある墨の匂いが、欧米の人々には“東洋的、魔術的”な匂いと感じるらしく、エキゾチックな雰囲気作りとして取り入れたわけだが、これは見事に功を奏したと言えるだろう。

 

 また、この曲のビデオ・クリップは、イタリアではキリスト教を冒涜しているとして、ドイツでは不適切な製氷源として、それぞれ放映禁止になっている。しかし、ヨーロッパ各国のチャートを集計したユーロ・チャートでもNo.1となり、ビデオの放映禁止がダメージになることなく、むしろ話題性をアップさせる結果になっている。さらに、まことしやかに流れた噂として“「ライク・ア・プレイヤー」を逆回転でかけると悪魔を崇拝するマドンナのメッセージが聴ける”というのがあったが、この噂に関しても、マドンナは否定も肯定もせず、結果として噂を煽ることになった(この噂がマドンナの口から否定されたのは1年後のこと)。世間が騒いでいるのを見て、マドンナはさぞかし気持ちよかったことだろう。

 

 これ以来、マドンナの人を驚かす言動はどんどんエスカレートしていき、「ジャスティファイ・マイ・ラブ」ではユダヤ人を誹謗するものともとれる新約聖書に一部を採用(12インチ・リミックス)して、ユダヤ教の団体から抗議を受け、所属のサイアー・レコードには爆弾が仕掛けられるという騒ぎにまで発展している。そして、ついにはヘア・ヌード写真集の発表と、まさにスキャンダル・クイーンの名に相応しい活躍(?)ぶりだったわけだ。

 89年の「ライク・ア・プレイヤー」当時、マドンナの周辺ではもうひとつのスキャンダルが乱れ飛んでいた。それは撮影に入っていた映画「ディック・トレイシー」の主演男優、ウォーレン・ビーティとの噂だが、マドンナは彼にモーションをかけまくり、めでたく(?)ハリウッドのうわさ話に発展させ、面目を躍如した。まぁ、マドンナの“男誘い発言”は初めてのことではなく、その後もサッカーのチリ代表フォワード、サラスに対し“彼を見ているとセックスのことしか考えられない”と強烈なモーションを送っている(当のサラスもサラスで、「ハダカを見たら、もっとオレのトリコになるゼ!」なんて応じているから、どっちもどっち)。結局は、ウォーレン・ビーティがマドンナに利用されたカタチで、「ライク・ア・プレイヤー」のヒットと、「ディック・トレイシー」の前宣伝に使われたというのが真相だ。

 

 ところで、高校時代のマドンナは成績優秀で1年早く卒業し、ミシガン大学奨学生にも決まっていたのに、それを投げ捨ててニューヨークに出てきてデビューを待ったという話はあまり知られていない。じつは、模範生だったのだ。そして、いまではスキャンダラス・クイーンも通り越して、強い女性のシンボル的存在として憧憬の対象となっているのだから、まさにダイナミックな人生と言えそうだ。

                           

 

2011年

4月

02日

Vol.37  ロクセット「THE LOOK」 2011.4.2

いまや“スウェディッシュ・インベイジョン”という言葉が懐かしく感じられるくらい、スウェーデンのアーティストは珍しくなくなった。かつてはアバとブルー・スエードくらいしか思いつかない状況だったことを思えば、大変な変化と言えるだろう。世界にスウェーデン・サウンドを広めるための扉を開けたのが、今回取り上げるロクセット。アバが世に出るきっかけはユーロ・ビジョン・ソング・コンテストだが、ロクセットの場合はアメリカのラジオ。そう、正真正銘、ラジオが生んだヒット・アーティストなのだ。そして「THE LOOK」は、そのワールド・デビュー曲とも言える記念の1曲なのである。

 ロクセットがアメリカでヒットした経緯についてはちょっとした伝説がある。細かいところに関しては諸説あるが、各地の電文をまとめた形で紹介すれば、そのストーリーはこうだ。

“89年の冬、デトロイトに住むある若者がスウェーデンを旅行する。当地ではその頃、10週連続チャートのNo.1などという、とんでもないヒット曲が存在していた。彼は旅行中のあちこちでこの曲を耳にして帰国。ところが、帰国後もこの曲が耳について離れない。そこでスウェーデン在住の友人に手紙を書いてそのヒット曲のカセット・テープを送ってもらった。何度聴いてもいい曲だ。若者は、地元の放送局にこのカセットのコピーを手紙付きで送った。「遠いスカンジナビアにこんないい曲がある。こういう曲を放送したらどうだ」というもの。デトロイトのFM局のDJは、早速このカセットの曲をオンエア。若者の手紙も紹介した。すると、リスナーからのリクエストが殺到し、あっという間にヘビー・ローテーションになった。これに目をつけたEMIアメリカでは即座にこの曲入りのアルバムをリリース。同時に全米規模で宣伝態勢をしいた。こうして「THE LOOK」はあれよあれよという間にヒットし、89年4月8日、ビルボード誌のシングル・チャートNo.1を飾ったのだった”。

 とにかく電撃的なヒットだった。突発的と言ってもいいかもしれない。そのヒットの足の速さを表すエピソードとして、ラジオのエアプレイの集計でチャートを出している「ラジオ&レコーズ」紙のチャート・アクションと、「ビルボード」のシングル・チャートを駆け上がるのがほとんど同時だったことがあげられる。通常、ラジオ・チャートのほうが数週間早いのに、だ。また、スウェーデンのアーティストということで、アーティスト情報が行き届いていなかったため、当初ロクセットを“ロゼット”と発音しているDJも多かった。

 ロクセットは、スウェーデンではすでに人気者だったデュオだが、アメリカでの突然のNo.1はヨーロッパ市場を大いに刺激した。逆輸入というカタチでヨーロッパに飛び火したロクセット人気はすごい勢いで各国に広がり、5月にオランダのアムステルダムで開かれた“ロック・オーバー・ヨーロッパ”というイベントでは、デュラン・デュラン、シーン・イーストン、ポーラ・アブドゥル・スティーヴィー・ニックス、ジャクソンズ、ジェイソン・ドノバンといった、そうそうたるメンバーに混じって出演を果たしている。その後も、映画「プリティ・ウーマン」のサントラ局「愛のぬくもり」を含む4曲の全米No.1シングルを生んで、世界的アーティストの地歩を固め、多くのスウェディッシュ・アクトの目標になった。ラジオが世界的ヒットを作り出すパワーがあることも証明したものだった。もっとも、そのきっかけを作ったのはひとりのリスナーだったわけだが…。

 ちなみに、リスナーがきっかけで大ヒットした例としては、シェリフの「ホエン・アイム・ウィズ・ユー」もあげられる。が、シェリフの場合、すでにバンドが存在していなかったというアンラッキーがあり、一発屋に終わっている。

                           

 

2011年

3月

26日

Vol.36 ガゼボ「アイ・ライク・ショパン」 2011.3.26

 ガゼボ。発音通り表記すれば「ガズィーボ」ということになるのだろうが、このイタリア人歌手の名前が、ここ日本でさかんに取り上げられたのは1984年のこと。

 資産家のイタリア人外交官を父に持ち、その父の赴任先レバノンのベイルートで生まれ、各国を転々とする少年時代を過ごし、父の赴任地がイタリアになったことでローマに落ち着いたときにはもう彼はハイティーンになっていた。もともと良家の子息、いわゆる金持ちの坊ちゃんだった彼は、「遊び」で音楽を作り始めるのだが、そのうちピエール・ルイジ・ジオビーニと名乗る作曲家と知り合い意気投合。ここから彼の音楽活動は遊びの域を出て、着々とプロへの道を歩み始める。本格的なデモテープを作ってからデビューするまで、わずか半年。デビュー・シングルのリリースから3ヶ月でイタリアのヒット・チャートのトップに輝くというインスタント・サクセスぶりを示した。その後も、彼の快進撃は止まるところを知らず、2ndシングルとしてリリースした、この「アイ・ライク・ショパン」が83年10月にイタリアでトップになったのを皮切りに、スペイン、ベルギー、フランス、ポルトガル、イギリス、西ドイツ(当時)、ルクセンブルクでも次々ヒットを記録し、イギリスで最も権威のある雑誌「ミュージック・ウィーク」誌が選定する「ヨーロッパで最もヒットしたアーティスト」の大賞を射止めている。

 

 ガゼボが日本でデビューを飾ったのは、こうしたヨーロッパでの成功を受けてのことだった。ガゼボの所属レコード会社はイタリアのベイビー・レコードという、その名の通りの小さななレーベルであり、日本や北米とはコネクションを持っていなかった関係で、日本での紹介が遅れたのだ。ガゼボの背後にはドイツ人の法律家と、香港系のマネージャーがついていて、日本での契約を慎重に検討した結果、彼らにとって唯一パイプのあったCBSソニー(当時)が獲得に名乗りを上げ、83年も押し詰まった12月、ようやく日本での契約がまとまった。レコードのリリースは翌84年。時まさにMTV全盛時代で、日本の洋楽界はMTV経由のロック&ポップスが幅を利かせていた時代だ。ガゼボにとって、決していい環境とは言えなかったが、ひとりの日本人アーティストがガゼボに注目。その後のヒットの流れを決定づけることになる。それが松任谷由実、その人であった。

 

 ユーミンは日本でガゼボのレコードが出る以前、イタリアに旅行したおりにこの曲に触れており、気に入って、わざわざ日本語の歌詞をつけて、日本語によるカバー・ヴァージョンをリリースしようと計画していた。それも、友人の小林麻美の再デビューを飾る曲として用意されていたのである。それが「雨音はショパンの調べ」というタイトルがつけられた、ご存知の大ヒット・ナンバーだったのだ。ちょうど、小林麻美の再デビュー・プロジェクトがCBSソニーの邦楽セクションであったことが幸いし、小林麻美とガゼボのプロモーション展開がドッキング。お互いに相乗効果を生んでいってのヒットとなった。とくに、小林麻美のエレガントなイメージと、ガゼボの持つダンディなイメージがオーバーラップしたことで、全体として「オシャレな楽曲」という好イメージに結びつき、ヒットの規模拡大に寄与したと言えるだろう。

 

 ただし、思わぬ副産物も生まれてしまった。それは小林麻美の印象・記憶が強過ぎたため、「アイ・ライク・ショパン」=雨の歌というイメージが色濃くついてしまい、梅雨の時期になるとリクエストが入るものの、それ以外の時期にはとんとお呼びがかからないという、ミスインフォメーションが起こってしまったのだ。以来、今日に至るまで、そのイメージは払拭できていない。

 

 さて、「アイ・ライク・ショパン」の大ヒットで、大いに将来を嘱望されたガゼボだが、この曲以降は期待を裏切る実績しか残していない。これはなぜか? 「アイ・ライク・ショパン」ヒット中に来日を果たし、これから宣伝展開が本格化、本人稼働のプロジェクトもいくつか組まれていたのだが、イタリアの徴兵制度に引っかかってしまい、いちばん重要な時期に1年間の兵役に出てしまったのだ。赴任先の軍隊では、兵士の慰問に大いに役立ったというが、テレビ出演はおろか、電話インタビューやファックスによるインタビューなどの方法も封じられ、媒体への露出もかなわず、次第に人々の記憶からガゼボは消えていってしまった。もちろん、その後も作品の発表は続いたものの、「アイ・ライク・ショパン」並みのヒットは望むべくもなく、“一発屋”というありがたくない称号だけが残ってしまった。

                           

 

2011年

3月

19日

Vol.35 マイケル・ボルトン「ウィズアウト・ユー」 2011.3.19

 バラードの名手として知られるマイケル・ボルトンが、デビュー当時はかなりハードなシンガーだったことはあまり知られていない。1975年にデビューした後、ソロとバンドの両方のキャリアでリリースしたアルバムは成功に至らず、83年に本名のマイケル・ボロディンからボルトンに改名。再デビュー作となったのが、『大いなる挑戦』という邦題がつけられた『MICHAEK BOLTON』だ。このときの広告に使用されたキャッチフレーズはなんと“ひとりメタル”。つまり、ハードロック/ヘヴィメタルの分野でのデビューだったわけだ。が、87年の3作目『ザ・ハンガー』で突然AOR路線へイメージ・チェンジ。これが、現在のバラードの名手マイケルのスタートだった。

 

 このとき、ファンの人たちと直接交流を持ちたいというマイケルの発案から、“ボルトン・ホットライン”を開設する。これは、ファン・クラブの電話と考えればわかりやすいだろう。ファンはジャケットに記された番号に電話して、係の人に電話番号と住所を伝え、質問の内容を告げておけば、マイケル・ボルトン本人かスタッフから直接回答が寄せられるというものだ。通常はツアーの予定や次回作のことなどに質問が集中するのだが、ある日フィアンセにいきなり結婚を破棄されてひどく落ち込んでいる男性から電話が入った。彼は、自殺を考えているという。たまたま電話の応対に出た女性が長電話の末、自殺を思いとどまらせたのに続いて、連絡を受けたボルトン本人もこの男に電話していろいろと悩みを聞いてあげ、おかげでこの男性は今でも元気に暮らしているそうだ。

 

 この事件が、マイケル・ボルトンを変えた。心が病んでいる人々やこの世の中に希望を失ってしまった人々の良き理解者でありたい、そういう人々に勇気と元気を与えてあげたいという気持ちから、ボルトンは人々の心の内側をうるわせる歌を歌っていこうと決意。そのときに思い立ったのが6年前に彼が作ってローラ・ブラニガンに提供した曲「How Am I Supposed To Live Without You:ウィズアウト・ユー」をセルフ・カバーすることだった。同時に、次作をファンとともに心の内面を考えるアルバムにしようと決め、その結果完成したのが『ソウル・プロバイダー』である。

 

 アルバム冒頭のタイトル・ソングで♪愛について、信頼について語ろう。永遠の時について語ろう♪と呼びかけるこのアルバムからは、 ♪もう二度と惨めな思いはしない。胸を張って誇らかに立つのさ。もう二度としくじるものか。オレは強い男に生まれ変わる。両足を踏みしめ自分の力で立ち上がれ♪と歌う「マイ・フィート・アゲイン」(ダイアン・ウォーレン作)、♪友達になれない者がどうして恋人になれる? どんなにつらくてもくじけない。二人でこの愛を育もう♪と歌う「バラーズ」(マイケル・ボルトン/ダイアン・ウォーレン/デスモンド・チャイルド作)を含む5曲のシングル・ヒットが生まれている。そのなかでも最大のヒットとなったのが見事全米No.1に輝いた「ウィズアウト・ユー」で、愛を失った哀しみから、相手の幸せを願いつつ立ち直ろうという心情がテーマになっている。この曲のヒットは、マイケルに初のグラミー賞をもたらした。89年の最優秀ポップ男性ボーカル賞を受賞。2年後の91年にも「男が女を愛する時」で同賞を獲得している。

 

“ひとりメタル”という称号と2曲のグラミー・ウィナーとなった“ポップ・バラードの帝王”というイメージとはずいぶんかけ離れているが、マイケルにとってはリズムやアレンジはあまり問題ではないという。いかに人々の琴線に触れるメッセージを発していけるかということのみが彼には大事なのだ。

 

 ファンのナマの声、真の悩みなどを知ることから、本当の意味で“魂の救世主”たらんとするマイケル・ボルトン。あらためて、歌詞をじっくりと読みながら聴いてみてほしい。

                           

 

2011年

3月

16日

Vol.34  フィル・コリンズ「グルービー・カインド・オブ・ラブ(恋はごきげん)」 2011.3.16

 先頃、引退を表明して話題になったフィル・コリンズは、1951年生まれというから今年還暦であるわけだが、彼ほど起用に様々なキャリアを積んできたアーティストも珍しい。ミュージシャンとして名を上げたのは、70年に参加したジェネシス。5年経ったときにはドラマーの立場からリード・ボーカリストになっていた。そして81年にソロ・デビューも飾り、数々のヒット曲を生み出している。この「グルービー・カインド・オブ・ラブ(恋はごきげん)」は、88年の全米No.1ヒットであり、映画「バスター」の主題歌だ。

 

 じつは、フィル・コリンズと映画との間には、切っても切れない縁がある。

 

 まず第一に、フィルのスクリーン・デビューはなんと64年、13歳の時だ。しかも共演者はビートルズ。そう「ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ」に、ビートルズを追っかけまわすキッズのひとりとして登場しているのだ。このハナシはかなり有名で、一部のファンの間ではビデオを見て、どれがフィルかをあてるゲームなんてものが流行ったようだが、当時は誰も正解がわからず、かなり後になってからフィル本人がポイント・アウトして明らかになった。 

 

 ソロ・デビュー後、初の全米No.1ヒットとなった曲も映画がらみだ。84年、「カリブの熱い夜」のテーマ曲「アゲンスト・オール・オッズ」がノ。1になり、フィルの映画に対する興味がグンと増したと言われている。そして、この「グルービー・カインド・オブ・ラブ」はフィルにとってソロ5曲目、ジェネシスを含めると6曲目のNo.1獲得曲で、当時大変な話題を集めることになった。というのも、単にフィルがサントラを手がけたというだけでなく、主役を演じたからだ(これがフィルにとって2作目の映画)。しかも、映画「バスター」は実話をもとにしており、フィルは実在の列車強盗犯人役だった。60年代初めに起こった列車強盗事件は、イギリス王室も巻き込んだ大事件となり、手配された通称“バスター”は、日本でいうところの、“ねずみ小僧”のようなヒーローにもなったという(01年、その犯人は自らイギリスに帰国した)。そんな背景もあって、この映画の公開時には、ちょっとしたモメ事もあった。

 

 フィル・コリンズも出席して行われた完成披露試写に、英王室からチャールズ皇太子とダイアナ妃(当時)が出席を表明。一部のマスコミに「王室が強盗を礼賛するような行動をとるとは何事か」と強烈にパッシングされた。プリンス・トラスト・コンサートなど、社会活動を通じて王室と交流があったフィルは、チャールズとダイアナにあてて、次のような手紙を書いている。

「私の映画に関心を寄せていただいて感謝しています。しかし、お二人がマスコミの好餌になるのは見るに絶えません。試写会に欠席いただけるようお願いします」

 後日、フィルは映画全編のビデオも手渡したという。この件に関して、マスコミの質問に答えてフィルは「この映画は事件を礼賛するようなものではなく、ロナルド・エドワーズ(バスターの本名)と彼の妻の関係を描いたヒューマン・ドラマダ。いたずらに好奇心を刺激するような報道はやめてもらいたい」と言い放ち、ファンから拍手された。結局、映画「バスター」からは、この「グルービー・カインド・オブ・ラブ」と「ツー・ハーツ」の2曲の全米No.1ヒットが生まれたのだった。

 

 ところで、この曲はカバー曲である。オリジナルは、後に10ccとしてUKポップス界をリードする存在になったエリック・スチュワートが在籍していた、マインド・ベンダーズというマンチェスター出身のロック・グループが66年に放ったヒット曲だ。タイトルにある”Groovy”とは、40年代に使われていた流行語で、“すごくイイ”、“イカしてる”という意味。もともとはグルーブ、つまりレコードの溝に関係している言葉だと言われており、「古いレコード・プレーヤーは針とびが多かったため、イン・ザ・グルーブ、つまり針とびしない状態が続くのは非常にイイ状態である」ということを指す言葉だったようだ。それが縮まって“グルービー”になったと言われ、サイモン&ガーファンクルの「フィーリング・グルービー」やラスカルズの「グルービン」も同じ意味で使われている。

                          

 

2011年

3月

05日

Vol.33 リチャード・マークス「ライト・ヒア・ウェイティング」 2011.3.5

 世の中に名バラードと呼ばれる曲は数々あれど、♪君がどこへ行こうと、何をしようと、僕は君を待ってここにいるよ。何を失っても、どんなに心が痛んでも、ここで君を待っているよ♪という印象的な歌詞を持つ「ライト・ヒア・ウェイティング」はトップ・クラスの名品と言えるだろう。1989年8月にビルボードのチャート・トップに立ったこの曲は、リチャード・マークスの2ndアルバム『リピート・オフェンダー』に収録されている。

 80年代が生んだ天才と言われるリチャードも、デビューをつかむまではかなり苦労している。5歳の時から父親の仕事の関係でピーナッツ・バターやキャンディ、クルマ、ケーキに至るまで様々なTVコマーシャルの歌を歌っていて、長じてからはセッション・ボーカリストとしての実績を積みながらもなかなかソロ・デビューに恵まれなかった。86年にようやくEMIマンハッタンと契約。デビュー・アルバムをリリースするやいきなりメジャーな存在になり、89年当時は“業界で最も忙しい男”とまで言われるようになっている。この曲はリチャードにとって3曲目のNo.1ということになるわけだが、その誕生の裏には89年1月8日に結婚した夫人、アニモーションのメンバーでもあるシンシア・ローズの存在と、留守番電話がある。

 

 もともとリチャードは小さなラジカセを持ち歩いていて、思いついた時にメロディーを口ずさんで録音するそうだが、時にはラジカセを持っていないこともある。そんな時はどうするのか?

「例えばレストランにいる時なんかに突然メロディーがひらめくことがあるんだよ。そのときはトイレに行って電話して、自分の留守番電話にメロディーを吹き込むんだ。トイレに人がいる時は、演技が必要だね。相手のいない電話に向かって“ああ、じゃあ、待ってるよ”とか行って、待ってるフリをしながら鼻歌を歌うんだ。そうすれば、周囲の人も変なヤツだとは思わないだろ」

 帰宅してから、自分が吹き込んだ留守電メッセージを聴きながら楽譜にしているリチャードを想像すると、ちょっとおかしい。

 

 また、よく知られた話だが、この曲は妻シンシア・ローズに捧げたラブ・ソングだ。リチャードは仕事のオン/オフをしっかりと考えるタイプで、オフの時は徹底的に遊んだそうで、シンシアも忙しかったから、なかなか会えない。そんな時に思いついたのが、歌のメッセージだったというわけ。それにしては歌詞の内容が逆のような気もするが、リチャードによれば、彼よりもシンシアのほうがロケなどで長期にわたって家を空けることが多いそうで、だからリチャードが自宅で曲を書いたりしながら彼女を待つことも多いとか。まあ、いずれにしても微笑ましい光景ではある。

 

 そのシンシア、「ステイン・アライブ」や「ダーティ・ダンシング」に出演した女優としても知られているが、88年にはかなりクサッていたと言う。

「私のところにくる台本は“リターン・オブ・ザ・バンパイア”とか“フランケンシュタインの甥”とか、ろくでもないものばっかり。だからシンガーになりたいと真剣に思ったわ」

 その願いは通じて、アニモーションに加入することになり、売れっ子で夫でもあるリチャードのプロデュースを得て「ルーム・トゥ・ムーブ」がTOP10ヒットを記録。おかげで、結果的には2人の“会えない度”は増してしまったかも? そんなこともあって、リチャードの「ライト・ヒア・ウェイティング」には特別な思いが込められている。だから、長い間、究極のラブ・ソングとして親しまれているのだろう。

 

 ちなみに、この曲と同じアルバムに収められている「アンジェリア」という曲もヒットしたが、この曲にも♪アンジェリア、君を振り向かせなくっちゃ♪という印象的なフレーズがある。このアンジェリア、実在のキャビン・アテンダントの名前なんだけれども、これに対してシンシアがやきもちを妬いたという、かわいいエピソードも残っている。

                           

 

2011年

2月

26日

Vol.32  ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック「ステップ・バイ・ステップ」 2011.2.26

 ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックという長ったらしいグループ名で彼らがヒット・チャートに登場したのは1988年のことだった。ニュー・エディションを育てた敏腕マネージャー、モーリス・スターが“白いニュー・エディション”を売り出そうということで集められたのがニュー・キッズの5人。結成は84年で、最年少のジョー・マッキンタイアは当時12歳。ようやくレコード契約を得たのは86年。88年にはデビュー・アルバムをリリースするも、そのときの初回出荷枚数はわずかに5000枚。とても後のニュー・キッズ・ブームを予感させるものではなかった。

 ところが、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったティファニーとUSツアーをすることになってから状況が急激に好転。あれよあれよとレコードが売れ始め、気がついてみればアルバム『ハンギン・タフ』はアメリカで900万枚、カナダで250万名、ドイツで70万枚、イギリスで60万枚、オーストラリアで30万枚のセールスを記録し、TOP10ヒットを5曲も輩出した。以来、どこに行っても追っかけがいるという人気ぶりで、“90年代のビートルズ”と言われるようになったわけだ。

 そんななかでリリースされたのが、この「ステップ・バイ・ステップ」だ。90年5月にリリースされ、すぐにチャート・イン。6週目にはNo.1になり、すべてのニュー・キッズ商品が飛ぶように売れたのだった。

 当時の状況を数字で整理してみると、90年の長者番付では芸能界トップで、5人にはそれぞれ100万ドルが支給されており、ペプシコーラの広告に出演した時のギャラは350万ドル。ファンに対するメッセージ・サービスの電話には1週間で10万本のコールがあり、その収益だけで1ヶ月50万ドル。ビデオ「ハンギン・タフ・ライブ」は80万本を売り上げ、マイケル・ジャクソンの「ムーンウォーカー」を抜いて売り上げ新記録を達成した。ちなみにRIAAが公認するビデオのプライチナムは5万本だから、レコードに換算すれば4000万枚規模の売り上げということになる。まさに栄光の歴史を刻んだわけだが、好事魔多し。あまりにも急激に人気が出たためにトラブルも多かった。すなわち、ニュー・キッズを食い物にする、大人たちのマネー戦争だ。

 

 とにかく、ニュー・キッズと名前がつけば何でも売れた時代だったから、USAトゥデイやスター・マガジンは特集本を刊行。バービー人形のボーイフレンドということでフィギュアが売り出され、テレビではニュー・キッズのアニメ版が放送されたり、コミック本が出たり。しかも、そのほとんどの権利関係が整理されていなかったので90年から92年にかけて、ニュー・キッズの周りには10件を超える訴訟問題が発生していた。これは、レコード会社、マネジメント、メンバーの友人、知人、親たちがそれぞれの会社と契約したことが原因。すなわち、マーチャンダイズ権、肖像権などが一本化されていないために起こったトラブルだった。このことが原因となって91年にはグループ名をNKOBと改めて権利関係を整理する努力もなされたが、すでに後の祭り。91年に入ると潮が引くようにニュー・キッズ人気は収束していき、94年のクラブ・ツアーを最後にシーンから消えることになる。

 皮肉なことに、デビュー前にマフィアから活動資金を借りていたことも発覚。嵐が去った95年11月になって、裁判所はニュー・キッズ側にデビュー前の借金60万ドルに見合う財産分与をそのマフィアにするようにという判決を下し、最後の最後までマネー戦争に巻き込まれることになってしまった。

 その間、芸能界での彼らの評判はすこぶる悪く、何人ものアーティストがインタビューのなかで「あんなの音楽じゃない」とか「ただお金のために集められただけ」とか「歌って踊る人形であって、アーティストとは思わない」とかケチョンケチョンにしていたのが印象的だった。

 

 当のニュー・キッズの面々は、90年代も押し詰まってジョー・マッキンタイアとジョーダン・ナイトが相次いで再デビュー。リーダー格だったダニー・ワールバーグは俳優として再びエンタテイメント界の頂点を目指して”ステップ・バイ・ステップ”の挑戦が始めたのだった。

                           

 

2011年

2月

19日

Vol.31 グレン・メデイロス「シー・エイント・ワース・イット」 2011.2.19

1980年代から90年代にかけて日本でアイドル的な人気を獲得したグレン・メデイロスは、86年のデビュー時にはわずか16歳。あどけない顔立ちのわりには、しっとりとしたバラードを歌うと評判になり、日本でも一躍人気者の仲間入りを果たした。そのグレン・メデイロスにとって、アメリカのマーケットは近くて遠い存在だったようだ。

 

 アメリカ・ハワイ州で生まれ育った彼は、15歳の時に地元のFM局KWAIが主催したタレント・オーディションに参加して見事に優勝した。この時のレパートリーが後のデビュー曲となる「ナッシング・ゴナ・チェンジ・マイ・ラブ・フォー・ユー」で、この曲を正式にレコーディングし、そのシングルがアメリカ本土のDJの手に渡り、番組でオンエアされたところリクエストが殺到。レコード会社が獲得に乗り出して…。と、サクセス・ストーリーを展開し、デビューするや、シングルはチャート12位まで上昇。大いに将来性のある若手シンガーとして業界も注目した。しかし、アメリカのシングル・チャートを制するのはじつに、それから約4年後のことである。

 

 ボビー・ブラウンとのデュエットで話題となった「シー・エイント・ワース・イット」が、3枚目のアルバムの最初のシングルとして90年5月にチャートに登場すると、グングン上昇を始め、同年7月に念願のNo.1をゲットすることになる。グレン20歳の夏だった。ここに至るまでの間、日本はもちろん、イギリスをはじめとするヨーロッパやアジア各国では、すでにトップ・アイドル、若手男性シンガーとしての地位を確立していたから、グレンにとってアメリカのマーケットは最後にやっと手にした、近くて遠い存在だったのだ。

 

 デビュー後3年間は大きなヒットに恵まれなかったものの、社交界では人気者となり、デビー・ギブソンやティファニー、ニュー・キッズ・オン・ザ.ブロック、トミー・ペイジ、ジェッツなど、若手同士の交遊録では常に中心に位置していたようだ。そんな交遊録と、アメリカでのレコード会社がMCAに代わったことがグレンにとっては転機になった。

 

 アメリカ以外の各国での人気に目をつけたMCAは、移籍第一弾アルバムのためにスタイリスティックスやレイ・パーカーJr.といった大物ゲストを配し、“本気”で狙ってきたわけだが、そのゲスト陣のなかにボビー・ブラウンもいた。このボビー参加の影にいたのがリック・ジェイムスで、彼の仲介で会ったボビーとグレンはすっかり意気投合。グレンはボビー参加の快諾を得たのだが、しかし最初は「ラブリー・リトル・レディース」という曲を作/プロデュースしてもらうに止まっていた。その後「シー・エイント・ワース・イット」にラップを入れたいと考えたグレンが、直接ボビーをスタジオに連れてきて、バラード・シンガーのグレンには珍しいジャンプ・ナンバーが完成したのだった。

 

 イメージ・チェンジと言ってもいい曲でアメリカのチャートを制したわけだが、日本やイギリスではこの曲の評判は当初、驚くほど低かった。日本、イギリスともにデビュー曲の「ナッシング〜」がNo.1になっていることからもうかがえるように、アジアやヨーロッパのマーケットにとってグレンはあくまでも“デヴィッド・フォスターばりのアダルト・コンテンポラリーを歌いこなす、若くて甘いマスクの男の子”だったわけで、ボビー・ブラウンとの共演というニュースが舞い込んだ時点から両マーケットは違和感を抱いていた、というほうが正しいのかもしれない。事実、日本ではさほどヒットせず、アメリカでのNo.1で多少追い風が吹いた程度で「ナッシング〜」を上回ることはなかったし、イギリスでもとうとうTOP10に入ることはなかった。結果、バラードとダンスの狭間に揺らされて、アメリカのNo.1という称号を得た代わりにグレンの活動は縮小していってしまった。

 

この曲は、失ったものがあまりにも大きかった“悲運の”ヒット曲と言えるかもしれない。

                           

 

2011年

2月

12日

Vol.30  バングルス「胸いっぱいの愛」 2011.2.12

 1981年、LAで結成された女性4人組がバングルス。ヴィッキーとデビーのピーターソン姉妹に、友人のスザンヌ・ホフスを加えた3人組で活動をスタートさせ、バンド名がバングスからバングル・シスターズ、そしてバングルスに変わった83年、マイケル・スティールが加入して、CBSとメジャー契約。86年には2ndアルバム『シルバー・スクリーンの妖精(Different Light)』からのシングル「マニック・マンディ」がビルボード・シングル・チャート2位を記録。3 rdシングル「エジプシャン」が初のNo.1を獲得し、一気にスターの仲間入りを果たした。デビュー当時はGO-GO’Sと比較されるガレージ・ポップ系のグループと見られていたが、彼女たちにとって2曲目のNo.1となった、この「胸いっぱいの愛(ETERNAL FLAME)」で“本格派”として認知された。

 ヒット曲が誕生するきっかけは面白いものが多いが、この曲は特にユニークだ。バングルスがグレイスランドを訪れたときのこと。ツアー・ガイドがエルヴィス・プレスリーゆかりの品々や場所を案内し、エルヴィスの墓地を巡りながら“ここに彼の母親が眠っているんだ”とか“ここにエルヴィスは今もいる”とか説明していたら、マイケルが不思議なアクリル板をみつけた。

 

 当時の模様を、メンバーは次のように語っている。

「私たちがみつけたアクリルの箱には、雨水が半分くらい溜ってて、エルヴィスの墓の上に置いてあったの。で、“これって何?”って聞いたらガイドが“魂が眠る永遠の額縁(=ETERNAL FLAME)だよ”って答えたの。私たちが“でも、半分雨水じゃないの”って言うと、ガイドの彼は表情も変えずに“エルヴィスの永遠の魂だよ”って言ったわけ。で、帰ってきてソングライターのビリー・スタインバーグに笑い話として話したら、ビリーが“そいつは曲のタイトルだぜ。いいじゃないか”って言って、10分くらいで歌詞を書き上げたってわけなのよ」

 

 エルヴィスの墓にインスパイアされたとは言っても、内容は甘く情熱的なラブ・ソング。結局は“ETERNAL FLAME”という言葉だけをもらったということになる。後日、スザンヌ・ホフスにこのことを確かめると、思い出すだけでおかしいというくらいに笑って、シャレで出来上がった曲が自分たちの一番のヒット曲になったことが今でも信じられないと語っていた。

 

 ところで、この曲をレコーディングする際、スザンヌ・ホフスはなんとスタジオ内で全裸になっている。プロデューサーのデヴィッド・シガーソンとスザンヌが“ボーカルにもっとツヤを出すにはどうしたらいいか?”という相談をしたところ、彼女はベッドインしている気持ちを声に出したいということになって、スタジオに薄手のカーテンを取り付け、中を真っ暗にしてマイクの前にオールヌードで立ったのだ。オケは録り終わって、あとはメイン・ボーカルを入れるだけという段階だったので、スタジオにはバングルスのメンバーとプロデューサー、エンジニアだけという状況だったというが、それにしても全裸とは…。おかげで、この曲はバングルスの曲のなかでも格段にツヤっぽく仕上がったし、スザンヌはソロ転向後も女性らしいボーカルを披露している。衣装を脱ぎ捨てるだけで声の持つパワーが変わってくるなんて、それだけ人間の意識と表現の関係とは不思議なものとあらためて感じさせてくれるエピソードだ。ちなみに、スザンヌはその頃、ロマンスの真っ最中。お相手は、60年代のフォーク/ロックのスター、ドノバンの息子ドノバン・レイチだった(この時期にはTVタレント、あるいはモデルとして活動していたが、96年になってモンキーズのマイク・ネスミスと、ナンシー・ボーイというロック・バンドを率いて日本デビューも果たしている)。

 

 バングルスはその後、メンバー間の不仲が引き金になって解散。それぞれ別々の道を歩くことになったが、21世紀目前になって、突如再結成し、周囲を驚かせた。再結成の理由は「時間が経って、またみんなでやりたくなった」。要するに、栄光の日々を取り戻すための仲直りだったということか。

                           

 

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2011年

2月

05日

Vol.29  ベット・ミドラー「愛は翼にのって」 2011.2.5

ベット・ミドラーは、バーブラ・ストライサンド同様、歌の世界と映画の世界を両立させているアーティストで映画がらみのヒットが多いが、この曲も1989年の映画「フォーエバー・フレンズ(ビーチズ)」のために書かれたもの。ビルボードのシングル・チャートでは見事にNo.1に輝いており、シングルとしてプラチナ・ディスクを獲得。彼女の一番のヒット曲となっている。

 映画のストーリーは、ベット演じるブロンクス生まれの貧しい少女とバーバラ・アシュレーが演じるカリフォルニアの令嬢の友情ドラマ。住む世界がまったく違う二人の人生をタテ軸に物語が展開するなか、ベットが歌う歌がこの映画の重要なスパイスになっている。どちらかというとコミカルな演技が得意なベット・ミドラーにとっては、この映画は80年の「ローズ」以来のシリアス・ドラマ。この映画に関して、ベットは封切り前に次のようにコメントしている。

「私自身、ベストな演技だと思う。今、私が本当に大切にしているのは子どもの成長と付き合うこと。子どもが世界に立ち向かっていけるようになったか、強くて力のある人間として生きていけるだけのものを身につけたか、それを見届けること。それがいちばん大事なことで、映画は映画よ。仕事として楽しくやっているから、以前のように気負ってないわ」

 私生活では愛娘ソフィーの母親としての時間を大切にするというベットのコメントは、そっけない感じもするが、それだけこの映画を境に吹っ切れたということだろう。

 

 映画「フォーエバー・フレンズ」のクライマックスは、バーバラ・アシュレーが愛娘をベッド・ミドラーに託してこの世を去っていくというシーン。多くの女性が涙を流さずにはいられないシーンだが、そのせいかこの曲はある種の追悼歌としても親しまれている。♪あなたは私の翼の下を吹く風/空高く飛べる/天まで上がれる/ありがとう/あなたがいてくれてありがとう♪という歌詞によるところも大きいのだろうけれど、親友の死に際してことさら暗くならないで、二人で過ごした日々に感謝するという姿勢が広く支持を得たポイントかもしれない。

 

 ポップス史を振り返ると、このほかにも様々な追悼歌が存在する。ダイアナ元皇太子妃の追悼ソングとして世界中で売れたエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド97」をはじめ、パフ・ダディの「アイル・ビー・ミッシング・ユー」、ダイアナ・ロスの「ミッシング・ユー」、クイーンの「ヘブン・フォー・エブリワン」などなど。そのどれもがジーンとする感動を与えてくれるのは姓名の尊さ、はまさなさを感じるからだろうが、ベット・ミドラーのように映画のなかで感動を与えてしまうというのは、あらためて“さすが”と思わせてくれる。

 

 ところで、「愛は翼にのって」がヒットしている最中、ベット・ミドラーはすでに次の映画「ステラ」のために、フロリダ州の高級別荘地、ボカロートンを訪れていた。それを知った地元FM局のDJが放送で呼びかけた。

「ベット・ミドラーさん、あなたのファンです。あなたが僕と同じボカロートンの空の下にいると思ったら、居ても立ってもいられません。この放送を聞いたらぜひスタジオに電話をください。電話してくださるまで僕は<愛は翼にのって>をオンエアして待ってます」

 そして、実際にこの曲を1時間30分にわたってオンエアし続けた。それを知ったベットは、FM局に電話をかけてこう言った。

「13歳の頃ハワイにいて、そこのDJがエルヴィス・プレスリーの<冷たくしないで>を気に入って100時間オエンアし続けたっていうのを聞いたことがあるわ。そのとき以来、こんなハナシ聞いたことがなかったけど、感動的な出来事だわ」

 日本ではあまり考えられないことだけど、アメリカのFM局のなかには変わったところが多く、レッド・ツェッペリン専門の局もあるほど。この話も、アメリカのFMならではのエピソードと言えるだろう。 

 

                           

 

2011年

1月

29日

Vol.28 ホイットニー・ヒューストン「オールウェイズ・ラブ・ユー」 2011.1.29

 1992年から93年にかけての全米ヒット・チャートを荒しまわったホイットニー・ヒューストンの「オールウェイズ・ラブ・ユー」は、彼女にとっていろいろな意味でエポック・メイキングなヒットとなった。ご存知の通り、ケヴィン・コスナーと共演、しかも初の主演映画となった「ボディガード」のテーマ曲である。

 

 じつはこの「ボディガード」、当初主演が予定されていたのはダイアナ・ロスだった。ところが、ダイアナ・ロスは脚本の段階でヌード・シーンがあるという理由で出演を受けず、代わって白羽の矢が立ったのがホイットニーだった。当然、ホイットニーはヌード・シーンがあることを知っていて出演を承諾したわけだが、クランクインして問題のシーンの撮影日になるとヌードを拒否。出演辞退もあり得るという状況まで態度を硬化させた。映画製作側は、すでに半分以上のシーンを撮り終わっていたこともあって、ベッド・シーンはあるもののハダカはなしという、どこかの国のアイドル・タレントのような解決策を提示してこの問題をおさめた。しか〜し、ケヴィン・コスナーは「何様のつもりなんだ!」と激怒。以来、撮影現場で顔を合わせても2人はひと言も交わさなかったという。ホイットニーはこのとき、すでにボビー・ブラウンと結婚していて、ちょうどボビーとの子どもを妊娠したところ。まさかボビーがやめさせたわけではないだろうが、生まれてくる子どもに気をつかった結果なのかもしれない。

 

 ちなみに、この映画の撮影に入る前、ボビー・ブラウンとの結婚の噂があがっている頃、その噂には根強い否定論があった。それは、“ホイットニーはレズだ”というもの。ホイットニーは「みんながゴシップを信じているなんてビックリ。最初に話を聞いた時はショックで傷ついたわ。でも私は噂が違うってことを証明しようとは思わない。みんな好きに言ってればいいわ」と、とりあわなかった。結局、ボビーとの結婚、妊娠で噂はあっけなく否定された。

 

 また、「オールウェイズ・ラブ・ユー」のオリジナルはドリー・パートンだが、ドリーは映画のスタッフから「サントラに使われ、ホイットニーが歌う」と聞いて、快諾。完成を楽しみにしていたようだ。ただ、完成した曲を聴いてビックリ。「まさかこの曲の歌い出しがアカペラになるなんて、思ってみなかったわ。とっても新鮮だった。それにホイットニーの歌も良かったし、アレンジも気に入ったし、映画も良かったし…。それにも増して、大ヒットしてうれしかったから、ホイットニーにサンキュー・レターを書いたの。“多額の印税ありがとう”ってね」と、お茶目なコメントを寄せている。

 

 さて、この曲は発売以来、順調にヒット街道を突き進んで92年11月にはNo.1となり、その後14週にわたってトップを独走。このヒットぶりとホイットニーの気合いの入った歌いっぷりで、93年度のグラミーではレコード・オブ・ザ・イヤーとアルバム・オブ・ザ・イヤーの主要部門2冠を達成。主要3部門では、彼女にとって初の受賞となった(87年、「すてきなSomebody」で最優秀女性ポップ・ボーカル賞を獲得している)。

 

 この成功はホイットニーにとって大きな意味を持つものになった。というのも、この曲がリリースされる1年前の91年1月27日に行われたアメリカンフットボールの頂上決戦、第25回スーパーボールで彼女は国歌を歌い、ライブ・シングルまでリリースしたが、実は口パクだったという報道があり、その真偽が大問題になっていたからだ。ミリ・バニリ事件以降、口パクに対して神経過敏になっていたマスコミが大々的に取り上げ、ついにカリフォルニア州議会では「ライブ・コンサートにおける口パク使用の禁止」を条例として決めた。それが92年6月のこと。そう、ホイットニーは口パク問題で信用をおとしていたから、ファンの信頼を回復するチャンスが必要だったのだ。結果として「ボディガード」の大ヒット、「オールウェイズ・ラブ・ユー」のグラミー獲得は信頼回復のための最大の効果をあげることになったし、またこの後すっかり映画づいて女優としても輝くことになる彼女のキャリアを開いた重要な景気ともなったのだ。20世紀の最後になってマリファナ所持事件を起こし、ミソはつけたが、やはり20世紀を代表するシンガーであることは間違いない。

 

 

 

                           

 

2011年

1月

22日

Vol.27 ボーイ・ミーツ・ガール「スター・トゥー・フォール」 2011.1.22

“一発屋”という言葉がある。定義として言えば、権威あるチャート、例えばビルボードのシングル・チャート(HOT100)に、1曲のみ送り込んで消えていったアーティストということになる。しかし、俗に一発屋という場合、こうした定義に関係なくイメージで捉える場合も少なくない。「マイ・シャローナ」のナックがいい例だろう。他にもちゃんとヒットがあるのに、その曲のヒットの印象だけが特に強烈だから“一発屋”という冠をつけられている。同じように、ボーイ・ミーツ・ガールも3曲のチャート・ヒットを放ちながら一発屋と言われている。それだけ「スター・トゥー・フォール」のヒット感が強烈だったということだ。

 

 ボーイ・ミーツ・ガール。このあたかもアイドルのような名を持つのはシャノン・ルビカムとジョージ・メリルの夫婦デュオで、ヒットを放つ前からソングライター・チームとしてポップス界に多大な貢献をしていた。2人はシアトルの出身で、飛行機で有名なボーイング一族の娘の結婚式で出会ったそうだ。そのときジョージ・メリルはまだ高校生だった。

 以来、2人は地元のマイナー・バンドの同僚として、あるいはソングライター・チームとして、11年の長きにわたって共同作業をすることになる。売れない頃には「フットルース」のサントラ曲でもあるデニース・ウィリアムスの「レッツ・ヒア・ボーイ」のバックでコーラスを担当したりもした。そんな2人がソングライターとして契約したのは84年。そして、チャンスは86年にめぐってきた。ジャネット・ジャクソンのために、という依頼を受けて作った曲「恋は手さぐり」がジャネットには採用されなかったものの、ホイットニー・ヒューストンにピックアップされて、ホイットニー2曲目の全米No.1となったのだ。

 

 一躍認められた2人は再びホイットニーのために「アップテンポの曲を」という依頼を受けた。この曲が生まれたのは、その頃のことだ。

 ホイットニーがLAのグリーク・シアターでコンサートを行った夜、2人もそのステージを見ていた。「恋は手さぐり」を歌い終わって、ホイットニーが観客の拍手を浴びていたとき、ジョージは自分たち2人の頭上を流れ星が落ちていくのを見た。偶然の感動を分かち合おうとシャノンのほうを見た彼は、彼女がノートに“waiting for a star to fall”と書くのを確かめて、“ああ、彼女も同じ思いなんだ”と思い、同時に素晴らしい曲が出来上がるぞと実感したという。

 しかし、ホイットニー・サイドはこの曲を気に入らなかったようで、レコーディングされることはなく、代わりに2人がホイットニーに提供したのが87年ホイットニーにとって4曲目のNo.1となる「すてきなサムバディ」だった。一方、採用されなかった「スター・トゥー・フォール」は自分たちでレコーディングし、大ヒットとなったというわけだ。

 

 ところで、2人は早くから同棲していたのだが、87年の暮れに一度別れている。ホイットニーの2曲のNo.1を生み出し、ソングライターとして脂ののっていた時期ではあったものの、常に一緒に過ごしていたためか2人の間にいつしか溝が生まれ、ジョージのほうが家を出たのだった。が、お互いにしっくりとこない生活を続けるうちに、ジョージのほうから復縁を申し出ている。「2人が一緒にやってきたことが間違いではなかったことに気づいたんだ。それを表現するのは難しいけど、答えは2人で作った歌の中にあるよ」とジョージが言えば、シャノンも「2人がわかり合っていること以外に素敵なことはないはずよ」と応じ、長い春に終止符を打って結婚することとあいなった。この復縁のきっかけになったのが、他でもないこの「スター・トゥー・フォール」なのだ。こうして2人はアーティストとしても、88年、ビルボードのTOP5ヒットを記録したというわけだ。

 

 ちなみに、日本ではこの曲はヒットするまでに多少の時間を要したが、いまでもFMなどでオンエアされるエバーグリーンとなっているし、ヒット後、映画「スリー・メン・アンド・リトル・レディ」の挿入歌としても使用されている。

 

 

 

2011年

1月

15日

Vol.26 フィル・コリンズ「アナザー・デイ・イン・パラダイス」 2011.1.15

1989年12月にリリースされたフィル・コリンズの約5年ぶりのニュー・アルバム『バット・シリアスリー』は、その年から翌年にかけて例年になく寒い冬を迎えていたアメリカで、社会問題にまでなった。このアルバムからの第一弾シングルとしてカットされた「アナザー・デイ・イン・パラダイス」が、オンエアされるたびに人々の胸を打ったからだ。

 

 

この曲は、フィル自身が世界中のあちこちに急増するホームレスの姿を見て曲にしたもので、ホームレスに対して有効な手段を打てないでいる政府をも含めた“家がある人”がホームレスのことを考えるきっかけにもなった。♪とまどいが心の中の駆けめぐる/パラダイスでは君にも僕にも別の世界が存在する♪と歌うこの曲は、発売後1ヶ月でRIAA公認のゴールド・ディスク・シングルとなり、全米チャートのNo.1に輝いた。数年前から問題になっていたホームレスは、この年大寒波による凍死者が続出したため一気に社会問題となり、ホームレスを救済するボランティア団体“ホームレス・フォー・ザ・ホリデーズ”が設立されて仮眠所の設置や炊き出しも行われ、フィル・コリンズ自身もいろいろなチェリティに参加し、この問題の理解を広めるのにひと役買った。

 

そんななか、フィルにはとんでもない事件が持ち上がった。彼がスコットランドのモル島に所有していた不動産を処分しようとしたところ、管理を任されていた会社がその土地に入り込んでいるホームレスを一斉に追い出しにかかったのだ。森林に囲まれた自然あふれる2000エイカーの土地はホームレスにとって絶好の居場所だっただけに、スコットランドのボランティア団体はフィルに対して売却の撤回を求めたりしていた。もともと、フィルにとっては税金対策で購入した土地であり、売っても売らなくてもいいような土地だっただけに売却をストップしたかったらしいが、すでに買い手も決まっていたため、取引は進んでしまったということらしい。

 

もっとも、こんな騒ぎをヨソに「アナザー・デイ・イン・パラダイス」は世界中の様々な人の“思い”を吸収してふくれ上がり、ひとり歩きを始めていた。90年2月頃からは、ルーマニアのブカレストにあふれかえる戦災孤児たちに対するメッセージ・ソングになった感があり、アメリカのラジオではルーマニアの戦況を伝えるたびごとにこの曲をオンエアし、「自由を獲得する戦い、あなたたちの勇気をたたえます」というメッセージを送り続けていたし、NBC、ABCのニュース映像でもしばしばこの曲が使われたほどだ。ビルボードのシングル・チャートでは4週連続のNo.1になったが、人々への浸透度で言えば全米No.1という以上のインパクトがあったと言えるだろう。

 

アルバムは?と言えば、アメリカで400万枚というビッグ・セールスをあげたほか、カナダ、イギリスではダブル・トリプル・プラチナム、さらにオーストラリア、オーストリア、ベルギー、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、スペイン、スイス、ニュージーランド、香港、そして日本と、じつに21カ国でプラチナム以上のアワードを獲得したのだった。もちろん、アルバムからのシングル・カットが続き、ヒットが続出したことがアルバムの売り上げに大きく寄与したことは確かだが、この「アナザー・デイ・イン・パラダイス」の世界的インパクトがアルバム・ヒットの原動力になったのは間違いない。このヒットを受けて、1990年1月からフィルは“シリアス・ツアー”と銘打ったワールド・ツアーを開始。そのライブ・セットのなかでこの曲がハイライト・シーンになったのは言うまでもない。

 

ジェネシスとの活動を並行してきたフィル・コリンズにとって、『バット・シリアスリー』の成功(商業的成功と音楽的評価)がその後のソロ活動にひとつの道筋をつけたと言えるだろう。その意味では、この曲はフィリ自身にも強いインパクトを残したのだった。冬が来ると思い出される名曲である。

 

 

                         

 

2011年

1月

08日

Vol.25  ポール・マッカートニー「ディス・ワン」 2011.1.8

世界のスーパースター、ポール・マッカートニーはなぜか“アメリカでは売れない”というジンクスがある。

と言っても、もちろん他のアーティストに比べれば売れているのだけれど、93年の『オフ・ザ・グラウンド』、97年の『フレイミング・パイ』はともに期待を下回る結果に終わった。

 

その“アメリカでは売れない”というジンクスが生まれたのは、89年のアルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の全世界的成功とアメリカでの不振に端を発している。89年にリリースされたこのアルバム。第一弾シングルに選ばれたのは「マイ・ブレイブ・フェイス」だったが、アメリカでは最高位25位に止まった。ただ、これはある程度予想されたことで、先行シングルとしての役割は果たしたという評価だった。そして、89年9月から13年ぶりに行われたワールド・ツアーのリード・トラックとして第二弾シングルに選ばれたのが、今回取り上げる「ディス・ワン」だったのである。結果的に「ディス・ワン」はイギリス18位となったのをはじめ世界中でヒットしたにもかかわらず、アメリカではなんと最高位94位と、シングルとしては惨敗と言うべき結果だったのだ。

 

このときポールの人気がアメリカでなかったというわけではない。89年12月にはマジソン・スクエア・ガーデン4デイズ公演がソールドアウトし、翌90年7月に打ち上げたワールド・ツアーのなかでもノース・アメリカン・レグは破格の動員を記録した。

また、このツアーではクレジットカード最大手VISAカードがスポンサーだったから期間中はVISAの顔となってアメリカのメディアに出まくったし、この年のグラミー賞では“ライフタイム・アチーブメント賞”を獲得。ハクもつけた。

さらに、コンサートの先々で地球環境保全をはじめとする社会福祉事業を積極的に行い、菜食主義者普及による地球保全キャンペーンのために10万ドルを寄付したりフレンズ・オブ・アースに25万ドルを寄付したりといった活動も報道された。

そして、何よりも90年4月にはブラジル・リオデジャネイロで開いたコンサートに18万4000人を動員。ギネスブックに“ソロ・コンサートによる最大集客”の記録が載るなど、話題性も抜群だった(ちなみに、ポール以前の記録は、同じくリオデジャネイロで80年1月に行われたフランク・シナトラ・コンサートの17万5000人)。蛇足ながら、90年と言えば日本でも東京ドーム11回公演、イギリスではウェンブリー・アリーナ11回公演というのがあったから、マジソン・スクエア・ガーデンでの4回公演も驚くにはあたらないかもしれない。いずれにしても、1年を通じてポール・マッカートニーは常に話題を提供し続けたわけだが、アルバムはゴールド・ディスク(50万枚)を獲得するのがやっとの状態だった。

 

この「ディス・ワン」は、アルバム発表当時から、アメリカのFM関係者の間では評価の高い作品で「シングルとしてオンエアするのは<マイ・ブレイブ・フェイス>よりも<ディス・ワン>」という声が多数上がっていた。にもかかわらずの不成績だったのだ。そこでキャピトルは矢継ぎ早に「フィギュア・オブ・エイト」をシングル・カットしたが、こちらも最高位は92位止まり。ちまたの盛り上がりのわりにはシングル・ヒットのないアルバムになってしまい、これがポール・マッカートニー“アメリカでは売れない”説のスタートになってしまったというわけだ。続く『オフ・ザ・グラウンド』の第一弾シングル「ホープ・オブ・デリバランス」も83位に止まり、惨敗。『フレイミング・パイ』では、世界的に「ヤング・ボーイ」をシングルとしてプッシュしているなか、アメリカは“この曲ではエアプレイがとれない”と沈黙を守り、入念なリサーチの結果をもとに「ワールド・トゥナイト」をシングル・カットしたが、64位でストップ。ジンクスを消し去ることはできなかった。

 

ポールが全米No.1をとったのは、83年のマイケル・ジャクソンとのデュエット「セイ・セイ・セイ」までさかのぼらなければならない。このありがたくないジンクスを破る日はいつになるのだろう。

 

 

 

 

 

2010年

12月

26日

Vol.24 スティング「フラジャイル」 2010.12.26

ヒットの規模をはかる場合によく使われる尺度としてビルボード(米)のシングル・チャートの最高位というものがあるが、この尺度では表現できないヒット曲が生まれることもある。スティングの「フラジャイル」などは、その代表例と言えるのではないだろうか。

この曲、スティングの大ヒット・アルバム『ナッシング・ライク・ザ・サン』からシングルとしてカットされたものの、イギリスでは最高位70位止まり。アメリカではリリースされず。というわけで、お世辞にもシングル・ヒットしたとは言い難い。しかし、この曲が発表された87年から25年以上経過している現在でもネイチャー系のテレビ番組やドキュメンタリー映画にさかんに使われ、環境保全プロジェクト・アルバムにも好んでコレクションされている。つまり、“自然保護”のテーマ曲のように取り上げられ、隠れた大ヒット曲となっているのだ。

 

こうした現象は、

♪生身の体に鋼の刃が突き刺さり、流れた血が夕日に染まって乾いていくとき、明日にでも雨が降れば血痕は洗い流される。だけどぼくらの心を襲ったものはいつまでも消え去りはしない♪(中川五郎氏対訳より)

と歌われる歌詞に負うところが大きい。が、このメッセージが人々の心にダイレクトに届いていった背景には、もちろんスティング自身の活動がある。

 

アマゾンの熱帯雨林の危機を知ったスティングは「ブラジルの奥地、アマゾンのジャングルには地球上の緑の60%が集中しているが、開発、乱伐で消滅してしまう危機にある。地球上のどこの自然も大切なものだが、地球規模の環境の保全を考えたとき、アマゾンが最も象徴的だと思って、熱帯雨林救済プロジェクトをスタートさせた」と語り、大統領や政府関係者とも会見を重ね、基金を設立して土地を買い上げるトラスト運動を始めたのが89年のこと。手始めに環境団体グリーンピースが企画したプロジェクト・アルバム『レインボウ・ウォーリアーズ』に1曲提供したスティングは、続いてジョニ・ミッチェル、オリビア・ニュートン・ジョンなど賛同者を集めてレコーディングした「スピリット・オブ・ザ・フォレスト」やこの「フラジャイル」をフィーチャーしたプロジェクト・レコードを発売。さらに、88年のヒューマン・ライツ・ツアーで親交を深めたアーティストに協力を要請し、90年2月、ブルース・スプリングスティーン、ブランフォード・マルサリス、ドン・ヘンリー、ポール・サイモン、ジャクソン・ブラウンとともにレインフォレスト・ベネフィット・コンサートを敢行した。

 

また、ビバリーヒルズの映画関係社の自宅で、超高級なプライベート・ライブを開いたこともある。このときの参加メンバーは、ポール、ドン、ブランフォードに加え、ジョー・ウォルシュ、ブルース・ホーンズビーも顔を見せ、1枚300万円(!)というチケット代で、100万ドル以上を集めたという。92年には、レインフォレスト・ベネフィット・アルバム『アースライズ』を中心となって制作。ここには、この「フラジャイル」や「スピリット・オブ・ザ・フォレスト」の他、U2、エルトン・ジョン、スティーヴ・ウィンウッド、ジェネシスといった大物たちの曲を収録。商業的にも大成功となり、かなり多額の資金がレインフォレスト・ファウンデーションに贈られている。

 

こうした地球環境保護運動は継続が必要だが、スティングは「フラジャイル」発表から今日まで変わることなくベネフィット活動を続けている。それもアーティストが単に楽曲で協力するといったレベルではなく、運動のリーダーとして積極的に活動する姿が我々の目に焼き付いてしまうような活動ぶりだ。だからこそ「フラジャイル」は、スティングの一連の運動をイメージさせるし、さらに大きく“自然保護”のテーマ曲のように取り上げられているわけだ。アマゾンに限らず、湾岸戦争のときにオイルまみれになった鳥や、酸性雨で枯れ果てたヨーロッパの森林といった映像を見るたびに、人々の脳裏にこの曲が流れてくる。そういった意味でこの曲は21世紀に残すべき名曲のひとつであり、20世紀の間違った開発を後世に伝える、生きた歴史教材にもなると思う。心して聴くべし。

                          

 

2010年

12月

18日

Vol.23  ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース「カップル・デイズ・オフ」 2010.12.18

サンフランシスコに根づいたロックと言えば、ジェファーソン・エアプレインやサミー・ヘイガーなどがあげられるが、人気、実力ともにベイエリアを代表するグループということになると、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースではなかろうか。1980年代後半においては、アルバム『スポーツ』が700万枚、『フォア』が300万枚の売り上げを記録。ベイエリア・ミュージック・アウォードの常連でもあり、サンフランシスコの地域振興にも貢献している功労者という点から見ても、ヒューイ・ルイスはNo.1の実績をあげている。

 

ところが、である。今回のピックアップ曲「カップル・デイズ・オフ」は、シングル・チャートにおいて11位に止まってしまい、この曲をリード・トラックとしたアルバム『ハード・アット・プレイ』はヒューイ・ルイス&ザ・ニュース史上、初のTOP10シングルを持たないアルバムとなってしまった。ここを分岐点として、彼らの人気は下り坂に向かうことになる。

 

「カップル・デイズ・オフ」のヒット状況は、ヒューイ・ルイスにとって様々なことをもたらした。クリサリス・レーベルからEMIに移籍したものの、第一弾であったこの曲がEMIの思惑を大きく下回る売り上げに終わり、結果EMIからは3枚のアルバム契約を残したまま離脱。代わって契約に名乗りをあげたのがエレクトラだったが、ロックンロールのカバー・アルバム『グレート・アメリカン・ソングス・トリビュート』が商業的に失敗し、エレクトラともケンカ別れ。結局、インディーズで活動することになったわけで、この曲が苦難の道のりの出発点でもあったということになる。

 

しかし、そのヒット規模のわりには、ヒューイ・ルイスの社会的活動は盛んだった。

サンフランシスコの身体障害者学校への寄付を目的とした“ブリッジ・ベネフィット”のコンサートはすっかり定着して毎年の恒例行事になっているし、エイズ・チャリティではサンフランシスコにあるボズ・スキャッグス経営の店“ブルー・ライト・カフェ”を会場に125万ドルという高額のコンサートを企画。アッという間に完売となり、ビッグなチャリティ・イベントとなったが、ヒューイはすべてノー・ギャラでチャリティに協力している。

さらにスティングの依頼による熱帯雨林ベネフィットでも高い入場料をとって少人数の観客相手のショーを行っているし、サンフランシスコ大地震の際にも救済ライブを行って、全額を市に寄付。復興援助に立ち上がっている。また、イラク・クウェート問題のためにサウジアラビアに向かう救援部隊を激励するためサンフランシスコ空港に出向き、数百名におよぶ軍隊全員にサインして無事を祈ったりもした。

91年10月のビル・グラハム死去に際しても、サンフランシスコ・ロック界の英雄をリスペクトし、その後数人のトリビュート・ライブなどにも積極的に参加している。ひと言で言えば、“いい人”なのだ。

 

ヒューイの“らしさ”を伝える面白いエピソードがある。

92年の来日コンサートを前に、日本のTVに彼が出まくったことがあった。バドワイザーが日本でのマーケット拡大を目的にアメリカを感じさせる人をイメージ・キャラクターにして日本向けのTV−CMを制作することになり、そのイメージ・キャラクターとして彼が選ばれたのだった。91年4月にリリースされた「カップル・デイズ・オフ」がこのCMによって再び盛り上がり、来日コンサートが盛況であったのは言うまでもない。

ジーンズのリーバイスのキャラクターに起用されたことでもわかる通り、ヒューイは日本人から見て、“最もアメリカを感じさせるアーティスト”のひとりであるのだろう。だからこそ、インディーズでの活動になってしまったものの、98年の大宮ソニックシティでのコンサートはアメリカン・ロック・ファンが大挙押し寄せて、大変な盛り上がりとなった。まさに、“ヒューイ・ルイスは死なず!”と思わせるコンサートだった。

                         

 

2010年

12月

11日

Vol.22  スターシップ「シスコはロックシティ」 2010.12.11

60年代アメリカのベイエリアに起こったフラワー・ムーブメント、ヒッピー・カルチャーの中心的存在だったジェファーソン・エアプレインも、80年代に入るとロックをビジネスとする時代の流れに合わせて少しずつ変化することを余儀なくされていた。74年にメンバー・チェンジをしたのをきっかけに、ジェファーソン・スターシップと改名したのに続き、85年に中心メンバー、ポール・カントナーが脱退したタイミングでスターシップと再び改名。そのスターシップ初のシングルがこの「シスコはロックシティ」だった。

 

マーティン・ペイジと、エルトン・ジョンの相棒、バーニー・トービンとの共作曲に、バンドのプロデュースを担当したピーター・ウルフとデニス・ランバートが手を加えることで完成したこの曲は、1985年11月16日、ビルボード・シングル・チャートのトップに立った。なんと、これが20年の歴史を持つバンドにとって初のNo.1である。

 

メンバーのクレイグ・チャキーソとミッキー・トーマスは、ミシガンでコンサートを終え、連れ立ってホテルに戻る車中で何気なく聴いたカーラジオで、この曲がビルボードのNo.1になったことを知った。

もちろん、この曲がチャートを上昇していることは知っていたが、前週は5位で、上には1位の「マイアミ・バイスのテーマ」をはじめ「パートタイム・ラバー」や「セイビング・オール・マイ・ラブ・フォー・ユー」などがあって、とても1位になれるとは思っていなかったそうだ。

だから、二人は余計に興奮し、ホテルの駐車場でクルマをスピンさせて喜びを表現していたが、そのうちにあやまって壁に激突。駆けつけた警官には事情を説明して許してもらったということだが、警官は捨てゼリフのように「もう2度とNo.1ヒットが出ないことを祈ってるよ」と、つぶやいたそうだ。もっとも、この警官の祈りは通じず、続く「セーラ」でもスターシップはNo.1を獲得した。

 

ところで、この曲、サンフランシスコのご当地ソングのように言われているが、最初からそれを狙って作られた曲ではない。曲中に聞こえてくるラジオDJ(その声は本物のベテランDJ、レス・ガーランド)が、「ゴールデンゲイト・ブリッジを見ながら、ゴージャスに晴れ渡った土曜日にお送りしています。あなたのフェイバリット・ステーション、あなたのフェイバリット・ラジオ・シティ。そう、寝ることのない、ベイエリアのロックシティからお届けしています」としゃべっていることから、ロックシティ=サンフランシスコとなったわけだ。以来、サンフランシスコの観光協会もこの曲をいろいろなキャンペーンのイメージソングに使って、街の曲として定着させていった。

 

そうしたキャンペーンのひとつに“ケーブル・カー救済支援活動”がある。サンフランシスコの街中を走るケーブル式路面電車は1873年に開通した歴史のあるもので、ユニオン・スクエアからフィッシャーマンズ・ワーフまでの2路線とマーケット・ストリートからポーク・ストリートまでという全3路線は街のシンボルのひとつだったが、利用客の減少と交通渋滞により廃止が検討された。しかし、ケーブル・カーは市の財産ということで、スターシップの曲を使った大キャンペーンが展開され、おかげで市民からのカンパも集まり、ケーブル・カーは生き延びたのだった。

 

また、プロ・スポーツの応援でもよく使われる。NFLのサンフランシスコ・フォーティーナイナーズのホーム・グラウンド、キャンドルスティック・パークでこの曲がオンエアされると観衆の大合唱になるという具合で、まさにご当地ソングになっているわけだ。

 

ちなみに、これほど愛されている曲だから、選挙のときにも好んで使われるらしい。さらに言えば、スターシップ3曲目のNo.1ソング「愛は止まらない」もしばしば選挙運動の支援ソングとして使用されている。ボーカルのグレース・スリックが政治に対して並々ならぬ意欲を見せているからなのかどうかわからないが、いずれにしてもポップスを使用するところに我が国とは違う政治環境が見て取れる。

                      

 

2010年

12月

04日

Vol.21 ブルース・スプリングスティーン「ブリリアント・ディスガイズ」 2010.12.4

1984年7月にリリースされたブルースの大ヒット・アルバム『ボーン・イン・ザ・USA』は、86年になってもまだシングル・カットが続けられるほどのロングセラーになったわけだが、翌87年には5枚組ライブ・アルバムをはさんで早くもスタジオ録音のニュー・アルバムとして『トンネル・オブ・ラブ』がリリースされた。同作からの第一弾シングル・カットがこの「ブリリアント・ディスガイズ」だ。87年11月にはビルボードのシングル・チャートで最高位5位を記録している。

 

84年の『ボーン・イン・ザ・USA』でアメリカの顔になったブルースは、芸能界長者番付でもTOP3にランクされ、“大統領にしたい男”アンケートでもトップを独走していたが、この曲およびニュー・アルバムのヒットで好感度はさらにアップした。これは、このアルバムに込められた、ブルースの“愛”の表現や、85年に結婚したジュリアンヌ・フィリップスとの幸せそうな結婚生活、ある意味できわめて“小市民的”な姿を見せることがそうした印象につながったと見ている人が多いようだ。

 

この年の12月にはポール・サイモン、ビリー・ジョエル、ルー・リード、ジェイムス・テイラーとともに、ホームレスの子どもたちを救済するチャリティ・コンサートに参加。翌88年にはアムネスティのヒューマン・ライツ・ツアーの主宰者のひとりとして、スティング、ピーター・ゲイブリエル、トレイシー・チャップマンらとともにワールド・ツアーを敢行。社会問題に対する意識の高さを見せ、活動域が広がったことを印象づけた。

 

それが原因ではないにしろ、88年のジョージ・ブッシュ対民主党のデュカキス候補という図式になった米大統領選では、デュカキス側の応援演説を要請されたりしている。この“デュカキスを大統領に”というキャンペーンにはロバート・レッドフォードなども参加したのだが、苦戦を伝えられるデュカキスにとっては一発逆転につながる派手なパフォーマンスとなるはずだった。ところが、これが逆に火に油を注ぐ形となって、“ブルースをアメリカ大統領に”という運動が再び活発になり、デュカキスへの関心は薄れてしまったという皮肉な現象も引き起こした。

 

こんな騒ぎの渦中にあって、ニール・ヤングのコンサートに観客として参加したブルース。ニールがアンコールで「次の曲、誰か手伝ってくれないかなあ」と、よくある観客参加曲の前フリを行ったところ、ブルースが観客席からステージに上がり、即席のジョイント・コンサートが実現した、なんていうお茶目なエピソードも伝えられている。

 

さて、「ブリリアント・ディスガイズ」の歌詞のなかには、愛に満ちた家庭生活を送っている男らしからぬ、不穏当なフレーズがいくつか出てくる。いわく“お前は愛する女を演じ、オレは誠実な男を演じている”。いわく“今夜、ふたりのベッドは冷え冷えとしている。神よ、自分が確信していることを、疑っている男にあわれみを”(いずれも、三浦久氏の対訳より)。意味深な歌詞だが、この歌詞が真実のものとなる日がくる。

 

アルバムが大ヒットし、ワールド・ツアーも絶好調だった88年8月。ブルースは、日本流に言うと、不倫現場を“フォーカス”されてしまったのだった。バック・ボーカリストのパティ・スキャルファとの仲が相当“不適切”であることを証明する写真が新聞紙上をにぎわせ、ジュリアンヌはすぐさま離婚に向けてアクションを起こした。とすると、彼女の側にも“離婚願望”があったのだろう。こうなってくると、にわかに「ブリリアント・ディスガイズ」の歌詞が真実味を帯びて迫ってくる。そのアーティストの女性関係が、ひとつのヒット曲の存在で立体的に見えてくるなんてところにも、シンガーソングライターの味わい方があるのではないだろうか。

 

その不倫については夫婦双方納得していたのかもしれないが、証拠写真を突きつけられたブルース側の不利はいかんともし難く、彼が支払った慰謝料は一説によると50億円というから、なんとも高くついてしまった。ただ、その原因ともなったパティ・スキャルファとは、めでたく91年6月8日に結婚。今は幸せな生活を送っており、結婚から10年目の2000年に行われた全米ツアーでは「俺のかけがえのないパートナー」とパティを紹介している。

 

ホンワカ・ムードのブルースに往年の怒りがなくなったと嘆くファンもいるが、じつはこのツアー中に物議をかもした新曲「アメリカン・スキン」を発表している。この前年にブロンクスで起きた警官による黒人射殺事件を題材にして、銃規制問題や人種差別問題を激しい口調で歌った問題作。この曲に、警察幹部は一斉に反応し、ブルースの警備をボイコットするという事態にまで発展した。このことを“怒りのブルース復活”と快哉を叫ぶファンが多かったというのも、きわめてブルースらしいエピソードである。

 

 

2010年

11月

27日

Vol.20  エアロスミス「ラブ・イン・アン・エレベーター」 2010.11.27

1987年の復活第2弾アルバム『パーマネント・ヴァケーション』の大ヒットを受け、多大な期待を背負って発表されたアルバムが89年の『バンプ』。その第1弾シングルとして当然のように大ヒットをが“義務づけられていた”のが、この「ラブ・イン・アン・エレベーター」だった。

 

カナダのバンクーバーで進められたレコーディングかなりなごやかだったようで、ジョー・ペリーはロールスロイス、スティーヴン・タイラーはポルシェをレンタカーでハイヤーし、川べりにログ・キャビンを借りて釣りをしたり水遊びをしたりと、リラックスした雰囲気で進められた。かくの如くハードロック・アーティストらしくないエピソードが続々と流された後に完成したアルバムだっただけに、その発表の現場の雰囲気は期待と不安が入り混じった、というものだったようだ。

 

しかし、周囲の不安をヨソに、この第1弾シングルはビルボード・チャートで最高位5位を記録する大ヒットとなり、アルバムの“トップバッター”の役目を十分に果たした。そのヒットに寄与したもののひとつが、エレベーターの中でのラブ・アフェアを映像化したビデオだ。このビデオ・クリップ、サンタモニカのホテルに実際にあるガラス張りのエレベーターを使用し、美女500人のエキストラが下から見守るなかスティーヴンの乗ったエレベーターが降りてくるという想定だったのだが、あまりにもや慈雨尼が多かったためにロケは中止になってしまった。おかげでエレベーターの中で美女と絡むシーンが多くなり、ロマンチックでエロチックなクリップが出来上がったというわけだ。スティーヴンいわく「イチかバチかのスリルを味わってるときのセックスが最高さ。タイトルがハッキリしてれば、ビジュアルもはっきりしてくるもんさ」

 

ともあれ、この曲の快進撃で勢いがついた『バンプ』は大ヒット。“バンプ・ツアー”も大成功のうちに終わった。15カ国で163日におよんだツアーで、メンバーがプライベート・ジェットに乗って飛行した合計距離は約7万5000キロ。ステージ用機材の運搬トラックはのべ83万キロを走破、という記録も残している。しかし、このツアーが特筆されるべきはその規模ばかりではない。彼らは、このツアーから社会的活動を活発化させている。

 

そのひとつはリサクルのために空き缶回収キャンペーンとコンサートをドッキングさせたこと。ツアーでまわる先の町のFM局と合同で「空き缶を持ってコンサートに来て」と呼びかけ、リサイクルの輪を広げた。これはアメリカにある“WE CAN”という団体との共同企画で、各地のFMの周波数と同じ数の空き缶を持ってきたリスナーのなかからウィナーを決め、バックステージに招待するなどのキャンペーンで、リサイクルの意識を喚起するのに役立ったという。

 

もうひとつは“フード・キャンペーン”。空き缶ならぬ缶詰や保存食品で過程にねむっているものを持ち寄ってもらい、アフリカやアジアの飢餓に苦しむ子どもたちに贈ろうというもので、こちらも大成功だった。

 

さらには、マイカーでコンサートに来るファンのことを意識し、ツアー会場でアルコール飲料を売らない運動を展開したのだが、コレは少し不評だったようだ。ファンのなかには「ビールのないエアロのコンサートなんて考えられない」とか「お題目のように“ドライブ・セーフティ”と叫ぶスティーヴンはおやじクサイ」という意見もあった。エレベーターの中でのラブ・アフェアは“セックス、ドラッグ、アルコール”のロックンロールだが、“ヘルシー、ボランティア、ドライブ・セーフティ”じゃロックンロールじゃない、ということか。

 

もっとも、当のメンバーたちは、それでも「僕たちは誇りを持ってやっている」と理解を求め続けた。いまでも反抗的なメッセージを持つヘヴィメタル・アーティストが多いなか、エアロスミスはこの時期に以前の“バッド・ボーイズ・ロックンロール”のイメージから“ヘルシーな大人のロック”へと完全に変身したのだ。これが奏功して、ハードロック/ヘヴィメタルというカテゴリーから突き抜けた、現在のエアロスミス・ステイタスがあると思う。

 

 

 

 

 

 

 

2010年

11月

23日

Vol.19 KISS「DEUCE」 2010.11.23

音楽は、ヒット曲として人を楽しませる以外のパワーを時に発揮することがある。今回は、そんな音楽の効能を紹介してみよう。

 

時は1974年。ミシガン州キャディラックにあるキャディラック・ハイスクーうが舞台だ。74年から75年にかけてのフットボール・シーズンに突入したキャディラック高校フットボール部は当初、さっぱり勝てなかった。アシスタント・コーチは「力はある。こんなはずではない。何かきっかけをつかめば必ず勝てる」と、連敗脱出の糸口を毎日探していた。そんなとき、町の小さなクラブでハードロックのコンサートが行われ、このコーチはウサ晴らしとばかりにそのコンサートに出かけて大いに盛り上がったのだが、そのコンサートの主がデビュー間もないKISSだった。

 

ご存知の通り、当時のアメリカでは“ブードゥーの悪夢”と形容されたメイクを施し、20センチはあろうかというヒールのブーツを履いて、ステージ上で暴れまくるパフォーマンスにすっかり興奮したアシスタント・コーチは、まるで東映のヤクザ映画を観た後の観客のように身体と精神にパワーがみなぎるのを感じた。そこでこのコーチ、ハッとひらめいて、それ以降、部室や練習場でKISSの曲を大音量で流し、選手たちを鼓舞したところ、練習での気合いが上がってきたので試合直前のロッカールームでもKISSを聴いて出陣するという毎日を演出した。すると、なんとチームは7連勝。その後も勝ち星を重ね、このシーズンを優勝という最高の結果で締めくくった。

 

この結果を喜んだアシスタント・コーチは、KISSに宛てて礼状を書いた。なんと言ってもデビュー直後で、まだアルバムがTOP100に入ることがうれしいというようなマイナー時代のKISSだから、この手紙に感動し、ジーン・シモンズとポール・スタンレーは何かこの高校をもっと喜ばせるような企画はないだろうかと考え、その高校の講堂でフリー・コンサートを開きたいと申し出た。これには高校側も大喜びで、即座に開催を決定した。

 

コンサート当日。KISSがいざその高校に行ってみると、生徒全員がKISSと同じメイクをしていたのだ! その上、翌朝、町の歓迎レセプションが開かれたが、そこでは校長、町長、その他列席者のおエライさんまでもが全員メイクをしてKISSを迎えたのだった。こうして、まだマイナーな存在だったKISSは、キャディラックの町では一躍チョー有名なロック・アーティストになったのだった。

 

KISSが全米規模の大ヒットとなった「ロックンロール・オールナイト」をリリースしたのはその1年後のこと。75年に発表されたライブ・アルバム『アライブ』が旋風を巻き起こし、このアルバムから「ロックンロール・オールナイト」のライブ・バージョンがシングル発売されてHOT100の12位まで上昇し、ようやく全米的な知名度を得ることになった。

そのライブ・アルバムのオープニングを飾ったのが「DEUCE」という曲で、デビュー後しばらくは彼らのテーマ曲代わりにライブで演奏されていたナンバーだ。フットボールやアイスホッケーなど、ある程度格闘の要素を持つスポーツでは相手をビビらせる必要から自身を“こわいもの”に見立てることがよくあるが、キャディラック高校フットボール部は、チームを”DEUCE=悪魔・災難“に見立てて相手チームを飲み込み、快進撃を続けることになったというわけだ。

 

KISSは、シングル・チャート上では「ベス」と「フォーエバー」という2曲のTOP10ヒットしか生んでいないが、ハードロック・マーケットのリーダー的存在として歴史に名を残すことになった。また、日本ではアメリカを上回る人気を獲得。クイーン、エアロスミスと並んで、3大ハードロック・バンドとして君臨したのは言うまでもない。キャディラック高校フットボール部と同じく、彼らの演奏に勇気を与えられ、力を与えられて快進撃を果たした高校は日本にも絶対にあったに違いない。

 

 

2010年

11月

20日

Vol.18  ジョージ・ハリスン「セット・オン・ユー」 2011.11.20

ジョージ・ハリスンが87年にリリース、ヒットさせた「セット・オン・ユー」は、アメリカの業界では“センセーショナルなカムバック”として話題を呼んだ。それもそのはずで、70年の「マイ・スウィート・ロード」の全米No.1をはじめ、70年代にはヒット・チャートの常連だったジョージは、81年のジョン・レノン・トリビュート曲「オール・ゾーズ・イヤー・アゴー」のヒット以来、6年半にわたってTOP40に顔を出すことがなかったからだ。そして、この復活劇をカゲで演出したのが、元ELOのジェフ・リンだった。

 

ジェフ・リンはELO時代からビートル・マニアを自称しており、3つの“B”、すなわちベートーヴェン、バルトーク、そしてビートルズに心酔していた。86年に事実上ELOが解散した際のコメントとして、今後の活動に触れ、「当面はプロデュースの仕事をしていく。いつの日かビートルズのメンバーのプロデュースをしてみたいけどね」と語っていたほど。それが実現して、この曲をはじめとするアルバム『クラウド・ナイン』をプロデュースすることになったのだ。

 

後のインタビューによると、直接的なきっかけになったのは86年3月15日に行われた“ハートビート86”という、チャリティ・コンサートでの共演だった。この段階でELOは3人になっており、ライブ活動もままならない状態。そんなところにELOにとっては地元になるバーミンガムでチャリティが行われ、そこにジョージが出演するということで、ジェフ・リンは心ときめかせながら客演を申し出た、ということのようだ。

 

この仲をとりもったのが、イギリスのベテラン、デイヴ・エドモンズ。デイヴとジェフは83年にレコーディングをともにして以来の仲で、デイヴからジョージに「信頼できるヤツがいるよ」と紹介があったというわけだ。

 

このチャリティでの共演から、ジェフがジョージに新作の制作を働きかけ、ジョージも承諾。その日からジェフの頭の中は“どうやったら、このビートルズの英雄を英雄らしくカムバックさせられるか”ということでいっぱいになったという。

 

かくして87年1月からアルバム作りがスタートしたわけだが、ジェフがまず着手したのはマテリアル集めとゲスト集め。ゲストに関してはジョージとジェフの人脈をフルに活用し、エリック・クラプトン、エルトン・ジョン、リンゴ・スター、ジム・ホーン、ゲイリー・ライト、ジム・ケルトナーという、そうそうたるメンバーを確保した。マテリアルについては、ジェフとジョージの共作曲などのほかに、広くカバーものも扱おうということで、ジョージ自身が63年に渡米したときに買ったという、R&Bシンガーのジェイムズ・レイの曲をカバーすることにした。それが、後に全米No.1になる「セット・オン・ユー」だったのだ。

 

この曲のレコーディングに際してジェフ・リンは「ジョージらしさとともに僕のなかにあるビートルズへの思いを込めることに腐心した」と、語っている。すなわち、ジェフ・リンにとっては、この曲のアレンジやプロデュースを通して“ビートル・マニアの自分の主張”を行ったことになる。結果としてこの曲は大ヒット。ジョージは一躍ミュージック・シーンの最前線に返り咲いたのだった。

 

このヒットによって88年1月のロックンロール・ホール・オブ・フェイムの式典であいさつに立ったジョージは「言うことはあまりないよ。だって僕は“静かなビートル”だからね」と言って、参加者を笑わせている。そして、この日が後のビッグ・プロジェクトの出発点ともなった。

 

音楽社交界に顔を出すことが多くなったジョージは、いろいろなイベントで様々な人物と旧交をあたため、またまたジェフ・リンが仕掛人となって希代のスーパー・グループが誕生したのだ。ボブ・ディラン、トム・ペティ、ロイ・オービソン、そしてジョージとジェフから成る覆面バンド、トラベリング・ウィルベリーズ。アルバムは100万枚を超えるビッグ・ヒットとなった。88年、暮れの出来事であった。

 

 

 

2010年

11月

16日

Vo.17  オリヴィア・ニュートン・ジョン&ELO「ザナドゥ」 2010.11.16

 1980年に公開された映画「ザナドゥ」は、いろいろな意味でエポックとなった映画だった。

 

78年に「グリース」で脚光を浴びて、それまでの低迷を脱したオリヴィア・ニュートン・ジョンにとって2匹目のドジョウを狙った主演映画作品であり、ジーン・ケリーが久しぶりにタップ・ダンスを披露するといった話題が先行した期待の映画でもあった。しかし、公開してみると興行成績は伸びず、映画はお世辞にもヒットしたとは言えない状況となった。

ところが、なぜかサントラ盤は大ヒットとなり、シングル・カットされたオリヴィア・ニュートン・ジョンの「マジック」は全米No.1。クリフ・リチャードとのデュエット「恋の予感」は最高位20位を記録。さらに、ELOの「アイム・アライブ」「オールオーバー・ザ・ワールド」はそれぞれTOP20内に入り、ELOとオリヴィアが競演したデュエット曲「ザナドゥ」も最高位8位を記録する大ヒットとなるなど、アルバムは商業的には大成功となったのだった。当時、映画とサントラ・アルバムのヒット状況がここまで違うのは珍しい現象だったのだ。

 

それはともかく、このサントラのプロジェクト。発端はじつはELOのリーダー、ジェフ・リンの結婚にあった。彼の奥方サンディはハリウッドの映画関係社と親交が厚く、ビバリーヒルズのジェフの家、ならびに所属レコード会社であったジェット・レコード社長ドン・アーデン(オジー・オズボーン夫人シャロンの父親)の家では、さかんにホーム・パーティーが開かれていた。そのなかで映画のプロデューサー、リー・クレーマーからオリヴィアを主演にした映画の構想がジェフに話され、音楽制作の依頼を受けることになったのだ。

 

ジェフ・リンは早速、10曲に余る曲を書き上げたが、なかでも主題歌となった「ザナドゥ」はオリヴィアが歌うことを想定してメロディーを練ったものだ。この曲の最後の部分で、ジェフ・リンはオリヴィアに究極の高音を出すことを要求したという。オリヴィアにとってはレコーディングでは初挑戦の音域だったということだが、なんだかプロデューサーとしてヒットを連発していた頃の小室哲哉の手法のようではないか。ともあれ、ELOがバック・トラックを担当しオリヴィアが歌ったこの曲は、イギリスではELOにとってもオリヴィアにとっても初のNo.1ヒットとなったのだった。

 

ちなみに、映画の制作が進む過程でちょっとしたトラブルが発生した。映画音楽を担当するクリエイターが2人いたからだ。ひとりはもちろん、ジェフ・リン。もうひとりはオリヴィアの古くからのパートナー、ジョン・ファーラーだ。当初、2人のクリエイターの役割分担がはっきりしていなかったため、2人とも曲を作り過ぎたのだ。結局、オリヴィアが歌うシーンはジョン・ファーラーが、歌わないシーンにはジェフ・リンがプロデューサーとして起用されてうまく棲み分けが成ったのだが、唯一の例外が「ザナドゥ」だった。それ以外は、レコードのA面がELOでB面がジョン・ファーラー(=オリヴィア・ニュートン・ジョン)とサイドが分けられ、発売元もアメリカがオリヴィア所属のMCA、世界(アメリカ以外)はELO所属のジェットというふうに完璧に分けられ、ELOとオリヴィアが関わったのは「ザナドゥ」のみだった。

 

今やELOの名前を聞いてピンとくるファンは少ないかもしれないが、70年代のTOP40ヒットにおいてはポップス界きっての“スマッシュ・ヒッター”だった。No.1を何曲も輩出するといった派手さはないものの、出すシングルは必ずと言っていいほどTOP40にエントリーされる。いわばアベレージ・ヒッターだったわけだが、それまではバンドのなかにオーケストラを持っているという特異性でヒットを重ねてきたのに対して、この「ザナドゥ」の大成功以降、4人のロック・コンボのみでポップスを表現するという80年代のスタイルを確立させることにもなり、その意味でもELO、とくにジェフ・リンにとってエポック・メイキングなプロダクトだったと言えるだろう。

 

また、オリヴィアの長年のファンにとっては、ジョン・ファーラー以外の「男」とのコラボレーションを興味深く見た人もいただろう。そのジョン・ファーラーとのコンビ、2000年のシドニー・オリンピックの開会式でも息の合ったところを見せつけたが、ここまで長い間、コンビを保っているアーティストとクリエイターというのも、今となっては非常に珍しい関係と言えるだろう。お互いにとって、持つべきは良き理解者ということか。

 

 

2010年

11月

14日

Vol.16  マイク・レノ&アン・ウィルソン「パラダイス〜フットルース愛のテーマ」 2010.11.14

 今でこそポップ・スター総結集のサウンドトラック・プロジェクトは珍しくもなんともないが、その先駆けとなったプロジェクトのひとつが「フットルース」。

1970年代後半に、「サタデー・ナイト・フィーバー」や「グリース」、あるいは「FM」「初体験リッヂモンドハイ」「アーバン・カウボーイ」など、ポップスと映画のタイアップがビッグ・ビジネスになることがわかって同種のプロジェクトがたくさん登場した。が、既発表曲の寄せ集めではもうひとつ魅力に乏しく、やはり全曲新曲を用意しようという意気込みで84年に制作されたのが、この「フットルース」だった。

ケニー・ロギンス、ボニー・タイラー、デニース・ウィリアムス、シャラマーなどが参加したプロジェクトのなかで“愛のテーマ”に割り当てられたのはラヴァーボーイのマイク・レノとハートのアン・ウィルソンという異色のデュエットであり、この曲「パラダイス」は当然シングル・カットされて全米TOP10を記録するヒットになっている。

 

そこで見逃してならないのは、この曲の作者がいまも熱心なファンの多いエリック・カルメンであるということだ。

当時、ゲフィン・レコードとソロ契約を結んだばかりのエリック・カルメンに、名物ディレクターで“再生屋”のA&R、ジョン・カロドナーを通じてこのプロジェクトの話は持ち込まれた。パラマウント映画ではこのプロジェクトに並々ならぬ意気込みで取り組んでいて、“愛のテーマ”についてはすでに3人のソングライターが駄目だしをくらっていた。カルメンは4人目の挑戦ということだったわけだが、即座にOKし、映画の脚本を担当するとともにサントラ曲すべての作詞を手がけたディーン・ピッチフォードと会った。

 

まず、愛のテーマが使用される予定のシーンをラッシュで見て、イメージをふくらませたカルメン。すでに♪Almost Paradise Knockin’on heaven’s door♪というフレーズをディーンが作っていて、ここに曲を付ける作業から始めたという。そして、ピアノでポロポロと弾いているうちにメロディーが完成したのはディーンと初めて会った2日後の深夜だった。明けて翌日、いよいよそのメロディーを発表ということになったわけだが、そのときのようすをカルメンは次のように回想している。

「いままで3人が沈没しているからね。多少は緊張していたよ。で、会議室に入るとパラマウントの偉い人たちや映画のスタッフが15人くらいいたんだ。そのなかで僕がピアノを弾いて男声パートを歌い、ディーンがデュエット相手の女声パートを歌ったんだ。歌い終わったらシーンとしているんだよ。あれっ!?て感じだった。でも、少し遅れて全員から拍手を受けたんだ。なかにはスタンディング・オベーションをしてくれた人もいた。ああ、気に入ってもらえたんだなって思ったよ。でも、一応念のため“この曲、映画に使えますか?”って聞くと、みんなが“もちろん!”と言ってくれた。うれしかったね」

 

ちなみに、エリック・カルメンが最初に見た映画のラッシュにはガイド・メロディーが付いていて、そのメロディーとはフォリナーの「ガール・ライク・ユー」だったそうだ。今思えば、「パラダイス」とはかなり違うイメージだったような気もするが…。さらに笑えるエピソードをもうひとつ。それは、この曲のデュエット候補が、最初はボニー・タイラーとエリック・カルメン自身だったということ。おそらく契約の問題その他で実現しなかったのだろうが、カルメンは「このプロジェクトのために僕に曲を書かせる“エサ”だったんじゃないかな。曲ができた後、いつの間にかマイク・レノとアン・ウィルソンのバージョンが出来上がっていたからね」と笑っていた。そして、「アレンジは僕がイメージしていたものと少し違うけど、映画のシーンには合っていたと思う」と、付け加えた。

 

この「フットルース」のプロジェクト、音楽面では大成功だったが、映画の興行成績という点では失敗だったかもしれない。それでも、サントラ時代の幕を開けたという意味で、歴史に残る作品になったと言えるだろう。

 

 

 

 

2010年

11月

09日

Vol.15 ホワイトスネイク「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」 2010.11.09

 日本において、あるいはイギリスにおいては、ディープ・パープルのボーカリストとして確固たる人気と地位があったデヴィッド・カヴァーデールも、じつはアメリカにおいては1987年の「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」の全米No.1ヒットまでは、ほぼ無名の存在だったと言っていいだろう。

ディープ・パープルの『バーン』がアルバム・チャートのTOP10にランクされたとは言え、それは1974年のこと。77年にホワイトスネイクとしてデビューしてからは、語るべき実績がないまま、いたずらに時を過ごしていたのだ。

 

 転換点になったのは1984年、アメリカのディストリビューションをゲフィンに変えたことだった。

当時のゲフィン・レコードには、後にSMEで“再生屋”として活躍したジョン・カロドナーがいた。エイジアのプロジェクトでプログレおやじたちを立ち直らせ、ジャーニーの再結成を仕掛けた敏腕A&Rである。

ジョンは、デヴィッド・カヴァーデールに対し、アメリカのマーケットにおける成功を約束する代わりに、アルバム制作のイニシアチブを自分に委ねるよう要求したが、この取引は50%だけ達成された。というのも、ホワイトスネイクはヨーロッパでの成功を捨ててアメリカ進出に賭けるだけの思い切りはなかったからだが、そこで採られたアイデアとはアメリカでのリリースに際してはリミックスを行うというものだった。

 

 こうしてゲフィンにおける第一弾アルバム『スラッド・イット・イン』で手応えをつかんだデヴィッド・カヴァーデールは、早速次回作に取りかかった。それが1987年、アルバム・チャートで最高位2位を記録した『サーペンス・アルバス』というアルバム。このアルバムを勝負作と考えたジョン・カロドナーは、オリジナル・バージョンに満足せず、“アメリカ・リミックス・バージョン”の制作を求めた。いわゆるハードロック/ヘヴィメタルの音質よりもポップなロックでアメリカン・マーケットを勝ち取ろうとしたのだった。

 

 鳴り物入り、自信たっぷりでカットしたアルバムからの第一弾シングル「スティル・オブ・ザ・ナイト」は、当時のジョン・カロドナーの弁によれば「この曲がホワイトスネイクこそレッド・ツェッペリンの後継者に相応しいことを証明してくれる」ものだった。が、シングル・マーケットは反応せず、成績としては今イチだった。

 

 これでジョンをいよいよホワイトスネイクをポップなロック・バンドとして売り出そうという発想になっていったわけだが、続く第2弾シングル「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」がバンドの将来を決める崖っぷちの曲であったことも確か。だからこそ、ジョンは二重三重の保険をかけていた。

 

 まず「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」は元々、ホワイトスネイクが82年にイギリスで大ヒットさせた曲だった。すなわち、セルフ・リメイク。また、当時のアメリカではMTVで話題になることがヒットに不可欠だったから、リリース前にPVも用意。さらに、アルバム・バージョンではポップさが足りないと感じたジョンは、シングル用のレコーディングを行うことを決意。なんとメンバーを、オリジナル・バージョンからデヴィッド以外は全員入れ替えてポップなミュージシャンでカラオケを作り、それに乗せてデヴィッドが歌うという、およそハードロック・バンドらしからぬ手法を採用して再録音を行ったのだった。

 

 文字通り背水の陣でリリースされたシングル「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」は見事にアメリカン・チャートを制したわけだが、このポップ版「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」はイギリスでもリリースされ、最高位9位を記録している。

 

 こうしてアメリカのマーケットを手に入れたデヴィッド・カヴァーデールは、この後バンドという形での活動にこだわらず“ホワイトスネイク”を自らのプロジェクトと考えるようになっていった。そして、続くヒットの「イズ・ジス・ラブ」のビデオで競演したトゥニー・キテイン嬢と89年に結婚。ヒット曲、名声、そして幸せな家庭を手に入れたデヴィッド・カヴァーデールにとって、この数年間がまさに“我が世の春”だった。

 

 

 

 

 

2010年

11月

06日

Vol.14 ジョン・ボン・ジョヴィ「ブレイズ・オブ・グローリー」 2010.11.06

1986年に発表したアルバム『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』が1000万枚を超える売り上げを記録し、続く88年のアルバム『ニュージャージー』も700万枚セールスとなり、ビルボード・アルバム・チャートで2作連続のNo.1を獲得したボン・ジョヴィ。11月3日にリリースされたばかりのベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』も好調なセールスを記録。ハードロック/ヘヴィメタルの分野のみならず、広い年齢層にアピールしてきた彼らの根強い人気を改めて見せつけているが、ロック/ポップスの若きリーダーとして活躍したボン・ジョヴィの90年代は、2人のフロントマン、ジョン・ボン・ジョヴィとリッチー・サンボラの映画対決で幕を開けた。

 

リッチーは、アンドリュー・ダイス・クレイ主演の映画「フォード・フェアレーン」のサントラでジミ・ヘンドリックのカバー「風の中のマリー」にソロ参加。

これに対して、ジョンは、エミリオ・エステベス、キーファー・サザーランドの主演映画「ヤング・ガンズ2」にテーマ曲となる「ブレイズ・オブ・グローリー」を提供しただけではなく映画のスコア制作も手がけ、チョイ役ではあるものの、カウボーイ役で友情出演。話題性においてリッチーを上回るものになり、この対決はジョンに軍配が上がったと言われたわけだが、そうした勝負の行方にこだわっていたのは音楽マスコミだけだったようだ。

 

当のジョンは、このサントラ・プロジェクトを“アーティストとしての成長に必要な実験場”と捉えていたようで、リトル・リチャード、ジェフ・ベック、さらにはエルトン・ジョンといった先達たちと刺激的なセッションをしたことで、人間的にも音楽的にも大きく成長した、と後のインタビューで語っている。

また、このときの“カメオ・アピアランス(チョイ役での出演)”をきっかけにして演技の勉強をすることになり、映像エンタテイメントに目覚めた彼が今では俳優としてのキャリアも誇っていることを考え併せると、「ヤング・ガンズ2」のプロジェクトはジョンにとって非常に大きなターニング・ポイントだったと言える。

 

1992年のアルバム『キープ・ザ・フェイス』までの間、ジョンはソロ活動に入っていて、90年から91年はユニークな活動も多くなっているのが興味深いところ。結局、「ブレイズ・オブ・グローリー」は、ゴールデン・グローブ賞においてベスト・オリジナル・ソング賞に輝いたし、アカデミー賞の受賞は逃したもののノミネートされたことで授賞式では映画関係社を前に「ブレイズ・オブ・グローリー」をパフォーマンスしたりと、この時期に映画関係者との付き合いが密になっていったのも想像に難くない。また、サントラで共演したのが縁となって、エルトン・ジョンとバーニー・トーピンのトリビュート・アルバム『トゥー・ルームス』でエルトン・カバーを披露するなど、ファンにとっては違った一面をたっぷりと見ることのできた2年間だった。

 

違う一面と言えば、チャリティ活動を活発に行い始めたのもこの頃からで、バンドとして「メイク・ア・ディファレンス・ファウンデーション」のチャリティに参加したのに続き、個人的には彼自身の母校であるセイヤービル・アホー・メモリアル高校の生徒たちを対象に、音楽が好きで勉学のかたわら音楽活動を行っている将来有望な高校生に奨学金を与え、いいミュージシャンに育ってもらおうという主旨の基金を設立したり、難病で苦しむ子どもたちを救済するチャリティ・コンサートをソロ・アクトとして行ったり。これらの活動が評価され、90年11月には、シルバー・クレフ・アウォードをバンド・メンバーとともに受賞している。

 

さらにはボン・ジョヴィのコンサートに横行していたダフ屋のために、青少年たちが高額のチケットを買っているという実状をファンレターを通して知ると、関係者にはたらきかけてダフ屋を取り締まる州条例の制定に寄与したり(実際にペンシルバニア州では転売を禁止する州条例が誕生・施行された)と、まさに通常の音楽活動を飛び越えたところで、社会現象にもなったのだった。

 

その象徴でもあったのが、ソロ作品でありながら、全米シングル・チャートにおいて5曲目のNo.1になったこの曲だった。

 

 

 

 

2010年

11月

02日

Vol.13 U2「終わりなき旅」 2010.11.02

1987年にリリースされたU2の問題作『ヨシュア・トゥリー』から「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」に続く2曲目の全米No.1となったのが、この「終わりなき旅」。それまでのU2は、アメリカン・マーケットにおいてはTOP40ヒットが1曲のみという、完全なアルバム・アーティストだったが、87年を境にシングル・チャートでも常連となった。

 

デビュー以来、つねに様々な社会問題と正面から向き合ってきたU2だが、この『ヨシュア・トゥリー』には、ボノの強烈な戦争体験が生かされている。

ボノが反戦、反アパルトヘイトを訴えながらツアーを繰り返していた頃、連日のように新聞で報道されたのがエルサルバドルやニカラグアの戦争だったが、ボノは新聞報道では本質はわからないと思い立ち、単身エルサルバドルに向かう。そして、首都サンサルバドールにほど近い村を訪ねていたとき、爆撃が開始された。

そのときの恐怖をボノはこう語っている。

「近くの村を爆撃で吹っ飛ばし始めたんだ。ジェットも来たし、オレは走ろうと思ったんだけど、すくんじゃってからだが動かなかった。村の人々が毎日のように体験している恐怖をオレ自身も味わったってわけさ。しかし、村の人たちは、恐れ知らずというか、勇敢だった。みんなはこう言うんだ。“大丈夫だよ。村の反対側に行けば平気だよ”と。そんな勇敢な彼らの顔を見ていたら、自分が小さな存在に思えたんだ」

 

このときの体験は「ブレット・ザ・ブルー・スカイ」という曲として再現されているが、『ヨシュア・トゥリー』に収録されている各曲は、このエルサルバドル訪問によってインスパイアされたものだ、とボノは語る。

「終わりなき旅」の原題“I still haven’t found what I’m looking for”(=僕が探しているものは、まだ見つけることができていない)に込められたボノの思いは、その後もずっと続いているように思える。戦争に反対し、差別を憎み、平和を訴えかけてきた彼らがいま直面しているのは、内線を続け、対人地雷の恐怖を毎日味わっている世界であり、人間が人間の手によって人間の未来を閉ざそうとしている環境破壊が進む世界であるから。

 

この「終わりなき旅」の大ヒットによって、世界中から認知され、超ビッグ・ネームの仲間入りを果たしたU2は、自身の社会活動の規模も大きくしていった。

ビル・クリントン大統領(当時)と公開討論を行い、クリントンの戦争に関する考え方や人権に対する取り組み方を正すとともに、若者が政治に関心を持ち、その投票活動を促進する“ロック・ザ・ボート”キャンペーンに力を入れていたのは92年のこと。イギリス北部のサリーフィールド原子力発電所付近で行われた原発増設反対デモにも参加し、過激な環境団体として知られるグリーンピースの所有するボート「ソーホー」に乗船して原発によって汚染された泥をかき集めるといった作業にも参加する一方、原発反対の署名運動を行い、メージャー首相(当時)に手渡すパフォーマンスも行っている。

 

ところで、この「終わりなき旅」がヒットしている最中、ローマのある街でこんなことがあった。

ある日の午後8時頃。突然、家の窓がガタガタと音を立てて振動し壁に掛けていた絵は揺れ始め、地震警報が鳴り出したと、住人たちが一斉に警察に通報したのだ。が、警察署では異常は何も認められていない。不審に思った警察が現場に急行して調べたところ、地震の原因は近くのフラミニオ・スタジアムで行われていたコンサートだった。午後8時、U2が演奏を始めたとたんの出来事だったという。

09年には、出身地であるアイルランド、クローク・パークでのコンサートの後、地元住民から苦情を受けたことで騒音のレベルを超えていたことが発覚し、U2は3万6000ユーロ(約380万円)の罰金を請求された。

先日も、360°ツアーを敢行中の彼らがスペインでのリハーサル中の騒音で地元住民の怒りを買い、1万8000ユーロ(約190万円)の罰金を請求されたと現地の新聞が報じた。地元当局が発表した声明文によると、バンドは「深夜までリハーサルを行い、予定時間を2時間も延長し、音量は当局が設定したものを超えていた」ことから罰金を命じられたのだという。

 

さて、U2は去る8月25日にロシアでの初となるコンサートを首都モスクワで行った。観客のなかには元大統領のミハエル・ゴルバチョフもいたそうで、今回の公演ではボブ・ディランの「天国への扉」をロシア人歌手ユリ・シェブチャクとのパフォーマンスで披露するシーンが話題を呼んでいる。ちなみに、モスクワでボノがロシアのメドベージェフ大統領と会談している際、ギタリストのエッジはロシア人宇宙飛行士たちと時間を過ごしていたそうだ。

 

 

2010年

10月

30日

Vol.12 ベリンダ・カーライル「ヘブン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」 2010.10.30

1982年、ビルボードのシングル・チャートを席巻したGo-Go’sの「ウィ・ガット・ザ・ビート」。日本でも大人気となり、スズキ・ジムニーのTVCMに5人のメンバー全員が出演したことは前回紹介したが、このガール・グループの中心的なメンバーだったのがベリンダ・カーライルだ。

 

Go-Go’sはルンルンした、今で言うパワーポップだったが、ソロに転向してからのベリンダは、イメージを“レディ”へとスライドさせていった。そして、87年の暮れ。Go-Go’s時代から通算しても初となる全米No.1ヒットとなったのがこの曲。2枚目のソロ・アルバムにあたる『ヘブン・オン・アース』からの第一弾シングルで、冒頭部分のコーラスにはママス&パパスのミッシェル(チャイナ・フィリップスの母親)とNo.1ソングライター、ダイアン・ウォーレンが参加しているのも話題になった。

 

もちろん、彼女の代表曲ともなったわけだが、じつはタイトルから出来上がったといういわくつきのナンバーでもある。当初はアルバムと同様、「ヘブン・オン・アース」だったのだが、曲作りの過程で“イズ・ア・プレイス”が追加された。のちのインタビューで、ベリンダはこの改題に関して「深い意味なんてない。ただ単に、符割の問題」と語っていた。そのコメントの通り、タイトルの響きがいいということで出来上がった曲だったのだ。

 

ところが、このタイトルを別の意味合いで気に入ってしまった男がいた。U2のボノだ。彼は、世界的に有名な環境保護団体“グリーンピース”の活動を支援する目的で、ポップ・ミュージシャンから曲を集め、『レインボウ・ウォリアーズ(グリーンピース・エイド〜地球の自然保護と調和)』というコンピレーションを制作しているときに、この曲に出会った。

 

コンピレーションのタイトル“レインボウ・ウォリアーズ”とは、ネイティブ・インディアンの神話に出てくる、地球が破壊されそうになったときに出現する“虹の戦士”のことで(ちなみに、グリーンピースの活動に使っている船もこの名前)、このことから“ヘブン・イズ・ア・プレイス・オン・アース”というタイトルに取り憑かれてしまったらしい。

 

歌詞を読めばわかるが、この曲はとくに地球環境のことを歌ったものではなく、むしろベリンダらしいラブ・ソング。だから、ボノからコンピレーションのオファーが来たときには、当のベリンダもびっくりしたようだ。

「私みたいなTOP40関係のアーティストがこんなプロジェクトに入れてもらえるのって、めったにないことよ。ポップ・ミュージックなんて世間的には意味のないものって思われてるし、通常なら私みたいなアーティストはこのプロジェクトには相応しくないでしょ。だから、本当に驚いたし、うれしかった」と語っている。

日本でもこれ以降、地球環境保護のテーマのもとさかんにこの曲が使われたが、ヒット曲の思わぬ進化と言えるのではないだろうか。

 

ところで、ラブ・ソングだというこの曲の歌詞には、ベリンダの恋愛に対するスタンスがよく表れている。かなりの情熱家という雰囲気なのだが、実際のところ彼女はプライベートでもかなりの情熱家なのだ。

 

Go-Go’s時代のこと。東京での予定をすべて終え、他のメンバーとともに機上の人となった彼女はしかし、1日後に日本に舞い戻ってきた。理由を聞けば、コトは単純。日本滞在中に知り合ったある青年に恋をして、アメリカに戻る機内で寂しくて寂しくてたまらなくなり、LAに着くなり荷物もほどかずに引き返してきたというのだ。もちろん、Go-Go’sの全盛期。いろいろとスケジュールもあったろうが、それをすべてかなぐり捨てての行動。まさに情熱の女と言えるだろう。この青年とは結局、東京の空の下のアバンチュールに終わってしまったが、この一件から梅酒党になったというエピソードも伝わっている。毎日のワーク・アウトと梅酒は今でも欠かさないということだ。

 

 

 

2010年

10月

26日

Vol.11 Go-Go’s「バケーション」 2010.10.26

Go-Go’sの2ndアルバム『バケーション』は、キャッチコピーとして“スーパー・ルンルン・ミュージック”というコトバが踊っていることでもわかる通り、徹底したポップ路線で売り出された。

 

デビュー・アルバム『ビューティー・アンド・ザ・ビート』の頃から日本では“スーパー・ルンルン・ミュージック”というコトバが好んで使われていたが、じつはアメリカではスタート当初は“ガレージ・ロック”としてカレッジ・ラジオを意識した売り出し戦略が練られていた。

それもそのはず、ベリンダ・カーライルやジェーン・ウィードリン、シャーロット・キャフィはバリバリのパンク・ロック・ファンで、ラモーンズやテレビジョンに憧れてバンドをスタートさせたほどだったから。

 

そのあたりを反映して、Go-Go’sのレコード契約に手を挙げたのはパンク系に強いIRSレコードだった。

彼女たちの演奏は、お世辞にも上手いとは言えないものだったが、パンクというコトバが持つ響きが技術を超越してノリで勝負といったイメージを含んでいたため、女ばかり5人が揃ってパンキッシュなロックンロールをやっていると評判になり、デデビュー・アルバムは全米で大当たり。それが日本に飛び火したときには、どちらかと言えばスノッブなフィールドで話題になるという雰囲気だった。

ところが、そのうちに彼女たちが本来持っているキャピキャピとした空気に周囲が巻き込まれていき、気づいたときには“ルンルン・ミュージック”と呼ばれても何の違和感も感じないほどになってしまった、というわけだ。

 

そして、デビューから半年を経て「ウイ・ガット・ザ・ビート」が全米2位を記録する大ヒットとなった頃からポップス・フィールドでの認知度が飛躍的にアップし、82年の夏、2ndアルバムのリリース時には日本では“完全なるポップス”と呼ばれるようになっていた。ちょうどこのとき、初の来日コンサートがあり、それにあわせてメディアにも登場。“スーパー・ルンルン”ぶりを振りまいて、ルンルン度も格段に上がっていた。

 

さて、来日時にコンサート以外の大きなイベントがあった。

それは、Go-Go’sにとって初のTV—CF撮影。スズキ自動車の“ジムニー”のコマーシャルで、確か“今ジムニーを買うと好きなようにペイントできる”といったようなものだったと思う。

 

CF用の曲は「バケーション」。

当日は、曲に合わせてGo-Go’sの2大アイドル、ベリンダ・カーライルとジェーン・ウィードリンの、とびきりの笑顔をフィルムに収めるべく、撮影スタジオのなかはまるで大パーティーのごとく陽気な雰囲気を演出してメンバーを迎えたのだが…。

 

実際に収録の作業がスタートしてみると、衣装が気に入らないだの、ヘアーが決まらないだの、腹減った、疲れた、とわがまま盛りの20歳代の女性5人の攻撃に日本側のスタッフはほとほと疲れ果てることになった。ともあれ、完成したスズキ自動車のCFは素晴らしく、Go-Go’sのルンルンぶりを伝えて余りあるものとなり、「バケーション」は本国アメリカをしのぐヒットとなった。特に、女子高生への浸透のスピードが早く、日本語で書いたファンレターが所属のレコード会社のCBSソニーに大量に届くという事態も引き起こされた。

 

なかでも女の子に人気が高かったのがジェーン・ウィードリン。彼女は日本語会話学校に通っていて、カタコトの日本語でインタビューに答え、メンバーたちの即席の通訳を務めた。また、実力派のシャーロット、キャシー・バレンタイン、姉御肌のハードロッカー、ジーナ・ショックと、アイドルとして騒がれてわがまま放題のベリンダとの間で、ほのぼのと潤滑油の役割を果たしていた点も人気急上昇の理由だったのではないだろうか。

 

もっとも、そのジェーンとベリンダのソリが合わなくなって85年にバンドは解散。なんとも短いバンド生命だったと言える。しかし、ファンに強烈なインパクトを与えたその存在感は、その後何度かの再結成を実現することになる。しかも、リユニオンするたびに好評で、ついに2000年には全米21都市をまわるリユニオン・ツアーが実現。そして、翌2001年には15年ぶりとなるニュー・アルバム『God Bless the Go-Go’s』もリリースされた。

 

 

 

 

 

2010年

10月

23日

Vol.10 ジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツ「アイ・ラブ・ロックンロール」 2010.10.23

1987年に、ジョーン・ジェット主演で公開された映画「愛と栄光の日々〜ライト・オブ・デイ」をご覧になった方はどのくらいいるのだろうか。あまりヒットしなかった作品なので、その数は少ないかもしれない。

 

ジョーン扮するロックンロールに情熱を燃やす主人公が、マイケル・J・フォックス扮する弟とバンドを組み、母親に反発しながら売れない日々をロックにしがみついて過ごし、やっとチャンスをつかんだときに母親と死別…というストーリーなのだが、これがジョーン自身の実人生とじつによく似ていたという。

 

この映画の監督ポール・シュレイダーは、アメリカの労働者階級の子どもとして育ち、家族内の衝突、段で津、失業、貧乏といった自らの人生を描こうと思って脚本を書き始めたときにジョーンの「アイ・ラブ・ロックンロール」がヒットしていて、そこで彼女の歩んできた人生を知ることになった。シュレイダーは、彼女をモデルに脚本を書き進め、86年に脱稿した時点では主人公はジョーンをおいて他にいないと考え、歌以外には興味はないという彼女を口説き落として映画を完成させたのだった。

 

 ジョーン・ジェットは、全員女性の“下着アクション”を売り物にしたランナウェイズの一員としてデビューしたが、色モノとしか見られず、ホンモノのロックンロールを追求したい彼女にとってはフラストレーションがたまる毎日だった。ランナウィズ解散後、ソロに転じても「ランナウェイズの…」という冠はついてまわり、彼女はランナウェイズと完全に決別するために新しいバンドを結成する。それがブラックハーツだ。

 

リッキー・バード、ゲイリー・ライアン、リー・クリスタルという新しい仲間を得て、デモテープを制作。「バッド・レピュテーション」というタイトルを付けられた曲のデモを携えて、ジョーンはレコード会社を回り始めた。しかし、CBS、EMI、RCA、クリサリス、アリスタと回るものの、どこからも色よい返事は得られず、やむなく自分でブラックハートというレーベルを設立して自費制作でアルバム『バッド・レピュテーション』を発売。これがインディーズで売れたことによって、ようやくボードウォーク・レーベルとの契約を勝ち取った。

 

そして、ボードウォーク・レーベルの名のもとに再び『バッド・レピュテーション』をリリースする一方、本格的に新作の制作をスタートした。そこで、プロデューサーのケニー・ラブーナのアイデアも取り入れて、アロウズというバンドの地味なレパートリーであった「アイ・ラブ・ロックンロール」をカバー。これが見事に大当たりして、全米No.1ヒットとなった。

 

すると、各メジャー・レーベルからはブラックハート・レーベルとの専属契約の好条件の誘いがいくつも持ち込まれたが、そうした誘いに対する返事をジョーンはPVに込めた。「アイ・ラブ・ロックンロール」がヒットした後に制作された「バッド・レピュテーション」のPVは、手のひらを返すようにすり寄ってきたメジャー・レーベルをあざ笑うという内容になっている。ジョーンにしてみれば、“何を今更”という気持ちだったのだろう。

 

ジョーンはこの時期のインタビューで、「自分のレーベルを運営するのは大変だけど、思った通りの音楽活動を続けていくためには私にとって最高の方法だったのかもしれない。その意味ではメジャー・レーベルのみなさんに“よくぞわたしを受け入れないでくれたわ”と感謝したいくらい」と、語っている。

 

事実、その後ボードウォーク・レーベルの倒産で経済的な支えを失ってもブラックハート・レコードは独自の活動を続け、ジョーンの“アイ・ラブ・ロックンロール人生”は変わっていない。そんな人生観に共感したポール・デュレイダーが撮った映画が「ライト・オブ・デイ」というわけだ。

 

 

 ところで、「ライト・オブ・デイ」は本来「ボーン・イン・ザ・USA」というタイトルで脚本の第一稿は書き進められていた。その時期に、ポール・シュレイダーからアイデアを聞かされたブルース・スプリングスティーンが後にそのモチーフを発展させて「ボーン・イン・ザ・USA」を制作。そのお礼の意味を込めて、「ライト・オブ・デイ」はブルースの書き下ろしの新曲として、シュレイダー監督とジョーンにプレゼントされた。

 

 

 

2010年

10月

05日

Vol.9 マイケル・ジャクソン「ブラック・オア・ホワイト」2010.10.05

 思えば、アルバム『デンジャラス』からの先行シングルとして1991年にリリースされた、この「ブラック・オア・ホワイト」を頂点に、それ以降、マイケルは苦難の道を歩き始めることになった。

 83年の『スリラー』、87年の『BAD』と、2作続いた超メガ・ヒット・アルバムのおかげで、マイケルは世界中の人々から関心を持たれ、ミステリアスなプライベート・ライフも相まって、ゴシップ・マスコミの好奇の目を浴び続けた。

 

 真偽のほどはともかく、“鼻がとけていてそれを隠すために厚いメイクを施している”とか、“肌を白くする薬を常用しているせいで重病にかかっている”とか、“性的不能でエリザベス・テイラーとはセックスレス・パートナー”といった調子の報道が続いていた時期に発表されたのが、この「ブラック・オア・ホワイト」である。

 

 アルバム同様、ビデオ・クリップにも“友人関係”にあったマコーレー・カルキンが出演し、話題性抜群のリリースだったことは間違いない。が、ビデオ・クリップ(マイケルがショート・フィルムと称する長尺のビデオ)の後半部分のマイケルのダンス・シーンのなかに暴力的な場面があるとか、ズボンのチャックを上げ下げする“性的”描写があるとイチャモンをつけられ、マイケルがマスコミを通して謝罪したり、クリップを編集して再リリースしたりと、のっけから出鼻をくじかれた曲でもあった。

 

 それでも、シングルとしては1983年の「ビリー・ジーン」に次ぐ成功をおさめ、ビルボード誌のHOT100では7週にわたりNo.1を記録。“キング・オブ・ポップ・デンジャラス・ツアー”と銘打たれたワールド・ツアーも好調で、すべてのゴシップを抑え込んでスーパースター、マイケル・ジャクソンの存在をアピールすることに成功した。このシングルの成功が、続く「リメンバー・ザ・タイム」「イン・ザ・クローゼット」「ジャム」「ヒール・ザ・ワールド」「フー・イズ・イット」「ウィル・ユー・ビー・ゼア」へとつながる原動力にもなったのだった。

 

 ところが、順風は長くは続かなかった。幼児虐待疑惑である。94年に裁判のほうは落ち着いたものの、このディスイメージはその後もつきまとうことになった。

 

 ちょうど「ブラック・オア・ホワイト」がリリースされた頃、実兄のジャーメイン・ジャクソンが自らの曲のなかで痛烈なマイケル批判を展開し、話題になったことがあった。問題の曲は、アルバム『ユー・セッド』に収録されている「ワード・トゥ・ザ・バッド」。

 

 タイトル通り“BAD”すなわちマイケルにもの申す内容になっている。いわく“自分のことしか考えず、自分の王座を守ることしか考えていない”、“自分の顔を変えようとしても、もう元に戻ることはできない”、“君はひとりぼっちのスーパースター”など、かなり激しい調子だ。

 

 これを「ライフ」「ニューヨーク・タイムス」「デイリー・ニューズ」「ニューヨーク・トゥデイ」といった一流紙がこぞって取り上げたものだから、世界中がこの壮大な兄弟ゲンカを知るところとなった。

 

 当のジャーメインは“現実が見えなくなったマイケルの目をさまさせてやりたかっただけで、家族の愛を修復しようとしてやったこと”と悪意がないことを強調したが、マイケルは“もはや家族のなかで味方はジャネットだけ”と、強く意識してしまったようだ(実際、マイケルの幼児虐待疑惑が報じられると、ジャネット以外の兄弟と両親はそろって批判的なコメントを寄せていた)。

 

 何にせよ、幼児虐待疑惑以来、とくにアメリカのマスコミはマイケルに厳しく、その奇行への言及だけが悪意を感じさせるほどの論調で繰り返されて、結果として「ブラック・オア・ホワイト」級のヒットは出ていない。

 

 ただし、ヨーロッパ、それも東欧での人気は今でもすさまじいばかりで、ツアーやCD、それにコンサートのライブ映像部門でもかなりの売り上げがあがっているという。「ブラック・オア・ホワイト」で唱えた人種差別撤廃のメッセージ。どうやら、アメリカ人には逆にはたらいてしまったようだ。

※この連載は2000~2002年に「mc elder」および「mc」で連載した内容を加筆/再構成したものです。

2010年

9月

07日

Vol.8 ポール・マッカートニー&スティービー・ワンダー「エボニー・アンド・アイボリー」 2010.9.7

ポール・マッカートニーとスティービー・ワンダーがピアノの上で歌う印象的なビデオ・クリップで有名なこのヒット曲は、1982年の全米No.1に輝いた。

 この歌に込められているのは言うまでもなく“人間の平等”をテーマにした人種差別反対メッセージである。

 

 エボニーとはインド南部原産のカキノキ科常緑樹である黒檀のことで、読んで字のごとく“黒い木材”。アイボリーとは象牙のことだから、この曲名は言い換えれば“黒と白”という意味で、転じてピアノの黒鍵と白鍵となる。

 

 そもそもはポールが「黒鍵だけでも弾けるけど、両方使ったら素晴らしい音楽になる」と言われたことにヒントを得て作った曲で、それをスティービーにデュエットを持ちかけたのだ。ポールはかねてからスティービーを敬愛しており、アルバム『レッド・ローゼズ・スピードウェイ』の裏ジャケット左上部には展示で書かれた“We Love You”というスティービー宛のメッセージがあるなど、ポールの思い入れは相当なものだ。

 

 ともあれ、モンセラ島のスタジオで2人揃ってレコーディングが行われたこの曲は、1982年4月10日にビルボード・チャートに初登場。1ヶ月後には見事No.1となり、ソロになってからのポールにとっては最大のヒットとなった。ちなみに、“ポール自身のNo.2は?”というと、マイケル・ジャクソンとのデュエット「セイ・セイ・セイ」だから、ポールは“デュエット上手”と言っていいだろう。

 

 ところで、“黒と白”というイメージによって人種差別に反対する手法は比較的多い。1972年にスリー・ドッグ・ナイトによる「ブラック・アンド・ホワイト」があり、イン・エクセス83年の作品「ブラック・アンド・ホワイト」、そしてマイケル・ジャクソン91年のヒット「ブラック・オア・ホワイト」などがあるが、「エボニー&アイボリー」に比べると、どれも直接的過ぎるキライはあるだろう。

 

 ポールの歌詞は「黒檀と象牙、完璧なハーモニーを奏でて生きている」というものだったが、例えばマイケル・ジャクソンの場合は「オレは生涯、有色人種と呼ばれて生きる気はない。白か黒かなんてことは関係ないさ」と歌っている。

 

 整形に次ぐ整形でだんだんと脱色していったマイケル自身のなかにこそ“黒と白”の大きな問題があったのかもしれない。かつて、ジェームズ・ブラウンは「声を大にして叫ぼう。オレはブラック。誇りを持っている」と歌った(「セイ・イット・ラウド」:1968年のTOP10ヒット)。

 

 この両者のメンタリティにはかなり開きがあるが、どちらも自身のアイデンティティに関わる問題であるのに対し、ポール版は“共存”のメッセージだからニュアンスは少し違う。同じようなスタンスをとっているグループにチャールズ&エディというデュオがいて、このブラックとホワイトのデュオは“二人合わせて調和すると素晴らしい”という意味を込めて、自らの2ndアルバムに『チョコレート・ミルク』というタイトルを冠した。このようなメッセージの発し方も面白いと思えるが…。

 

 さて、もうひとつ象徴的な現実がある。エボニーもアイボリーも現在ではかなり貴重な材であるということだ。エボニーは先にも触れたが、黒くて固い木材ということで家具材としても人気だが、近年は減少の一途をたどっているという。日本では植林用に杉が選ばれているが、東南アジアではラワンも積極的に植えられていると聞く。

 

 重くて固いものよりも、加工しやすいものを黒く仕上げることで“黒檀の味”を出そうとしているわけだ。その発想は、徐々に天然の本物から遠ざかっている我々の生活を象徴していないか。

 

 一方、象牙はワシントン条約による規制の対象だが、当の産地であるアフリカ諸国と最大の消費国でもある日本との間でネゴシエーションがなされて条約による規制が緩んでいると同時に、アフリカでは、牙が無いか、もしくは短い象が急増している。

 

 これは16世紀から続く乱獲の結果、本来希少だった牙の短い象の遺伝子を持つ象が相対的に増えたため、と言われている。エボニーもアイボリーも地球環境の劣化を象徴していることを考え合わせると、82年当時よりも現在のほうがなお「エボニー&アイボリー」が語りかけてくるメッセージは強烈だ。行間を読めば読むほど“深い”ヒット曲と言えるだろう。

※この連載は2000~2002年に「mc elder」および「mc」で連載した内容を加筆/再構成したものです。

2010年

8月

29日

Vol.7 TOTO「アフリカ」 2010.08.29

日本では根強い人気を誇るTOTOも、アメリカではヒットの波に翻弄されてきた。

 デビュー曲の「ホールド・ザ・ライン」こそTOP5に入るヒットになったものの、その後3年間はヒットに恵まれず、しかし82年にリリースしたアルバム『TOTO IV』で爆発的な人気を獲得すると、その後は中堅バンドという評価で推移し、90年代はほぼゼロ・アクション。

 

 口の悪い評論家は「TOTOは『TOTO IV』だけの一発屋」とまで言う。80年代を代表するバンドであり、いまもコンサート集客やCD売り上げにコンスタントな実績を保っている日本から見れば、考えられないほどアメリカでの評価は低い。そのなかで唯一、シングル・チャートでNo.1になったのが、「アフリカ」であった。そして、TOTOのアメリカにおける栄光というのは、1983年2月23日のグラミー賞授賞式で極まった。ちょうど、この年の2月5日に「アフリカ」がチャートのトップを飾り、期待感が高まっていた時だった。

 

 でも、それまでの酷評を考えると、ノミネートされたことすら信じられないほどだった、とスティーヴ・ルカサーは回想する。実は、この年のグラミー賞“ベストR&Bソング”に輝いたジョージ・ベンソンの「ターン・ユア・ラブ」は、ルカサーとジェイ・グレイドン、ビル・チャンプリンという仲良し3人組の作品で、TOTOの面々に先駆けて、ルカサーはトロフィーを手にしていた。

 

 その授賞式を振り返って、ルカサーはこんなふうに語る。

 

 「会場に座っていながら、信じられなかったよ。だって、スティービー・ワンダーやポール・マッカートニーといった、オレたちのヒーローたちと対抗してるんだぜ。それに、ちゃんとタキシード着こんでたから、なんか妙な雰囲気でさ。で、テレビ放送されていない部分で、ベストR&Bソングのトロフィーもらっちゃってたから、“オレ、グラミーとっちゃったよ。信じられるか?”ってメンバーに言ったら、“ホントだな。オレたちがとれなかったら、おまえだけがすごいことになっちゃうんじゃないか”なんて言い合ってたんだよ。そしたらすごいことになっちゃって、なんか非現実的にすら感じちゃったよ」

 

 確かに、この年TOTOが獲得したグラミー賞はすごかった。“レコード・オブ・ザ・イヤー”と“アルバム・オブ・ザ・イヤー”の主要2冠に加え、ボーカル・アレンジ、インストゥルメンタル・アレンジ、レコーディング技術という、クロウト受けする3部門も受賞。そして、“プロデューサー・オブ・ザ・イヤー”もTOTO名義で受賞した。プロデューサー部門をグループ名義で受賞した例は後にも先にもないから、この年のTOTOがいかにセンセーションを巻き起こしたかがわかる。

 

 しかし、皮肉にもこの栄光が大き過ぎたためか、その後のTOTOは、ことアメリカのマーケットからは次第に忘れられていってしまった。ルカサーいわく、アメリカのレコード会社はまったくサポートすることもなく、その存在すら意識していないという状態。プレスからも酷評されていて、アメリカを代表するグラミー・ウィナーでありながら、現在のTOTOが活躍するフィールドはヨーロッパと日本ということになっているという。

 

 ところで、78年のデビュー当時、TOTOのグループ名の由来としてまことしやかにささやかれた“説”があった。それは、ボズ・スキャッグスのバック・バンドとしてデビュー前に来日したTOTOのメンバーが、日本のトイレに入るたびに“TOTO”の文字を目にして、“なんて有名なコトバなんだろう。それに響きもいい”ということでTOTOと名乗ることにしたというもの。

 

 その後、「オズの魔法使い」の犬の名前という説も出たが、日本のトイレ発祥説があまりにもインパクトが強かったため、この説をいまだに信じているファンがいるようだ。が、この説、まったくのデタラメ。当時CBSソニーのTOTO担当ディレクターだったO氏が、あまりにもあちこちから「TOTOって、どうして名づけられたのか? 意味は?」と聴かれたので、冗談まじりに先の説をぶったところが広がってしまったというのが真相だ。いやはやなんとも…。

※この連載は2000~2002年に「mc elder」および「mc」で連載した内容を加筆/再構成したものです。

2010年

8月

14日

Vol.6 エイジア「ドント・クライ」 2010.8.13

1982年に“プログレ界のスーパースター”という称号でデビューしたエイジアは、デビュー・アルバム『Asia』を大ヒットさせ、シングル・カットした「ヒート・オブ・ザ・モーメント」もビルボードのシングル・チャートの4位に送り込み、“ポップ・グループ”としての地位を固めた。

 それは同時に、元イエスのスティーヴ・ハウ、ジェフリー・ダウンズ、元ELPのカール・パーマーという弾きまくりたいタイプのミュージシャンをまとめあげて“ポップ・ソング”を作ろうとしたジョン・ウェットン(元キング・クリムゾン)の思惑が商業的に正解だったことの証明にもなった。

 

 さて、イエス、ELPといったプログレ・バンドで脚光を浴びてロック界のスーパースターになってからずいぶんと長い時間が過ぎ、世の中が激変していたなかで商業的な成功をおさめたエイジアは、当然のように“新しいルール”のなかに身を置くことになった。82年当時、ロック界の(それも商業的な成功を目指すポップ・ロック界の)新しいルールとは何か? それはMTVへの対応である。

 

 80年代に入って急速に進化した“ビデオ・クリップ文化”は、81年のMTV開局とともに一気に花開いた。ロック、ポップスのヒットを生むためのメディアとしてMTVは不可欠なものになり、アーティストは先を争ってビデオ・クリップを制作し、その印象、衝撃、出来映えを競う。

 

 そしていつしか、ビデオが面白くないものは売れないと考えられるようになって、アーティストにもある程度の演技力が要求されるようになり、見た目のかっこよさ、ルックスも求められるようになる。そんななかで、エイジアはポプ・ロック路線での成功を決定づけるべく2ndアルバム『アルファ』をリリースする。前作にも増してポップなシングル曲「ドント・クライ」も用意して。

 

 しかし、この「ドント・クライ」は、ビルボード誌のHOT100でTOP10にランクインする大ヒットになったにもかかわらず、バンド内に大変大きな亀裂を生じさせる起爆剤にもなってしまった。スティーヴ・ハウは、この“ポップ過ぎる”曲を極端に嫌い、数々のインタビューで「好きではない」と明言したのだが、その発言の背景にあったのがこの曲のビデオ・クリップだった。

 

 元々、ビデオなどは演奏場面を収録すればいいじゃないかという持論のスティーヴは、この曲のビデオでギターを持たない演技を要求され、激しく抵抗したという経緯もあって“「ドント・クライ」嫌い”になってしまったのだ。果ては、1983年の初来日コンサートで「<ドント・クライ>を演らない」と言い出し、日本側の関係者を慌てさせるというひと幕もあった。

 

 ポップ路線の推進役、ジョン・ウェットンが、スティーヴの周辺スタッフのクーデターに負けて来日直前に脱退させられるという“事件”もあり、エイジアは大きくプログレ・サイドに揺り戻されていた矢先だったので、TOP10ヒットを演奏しないという発想も成り立っていたというわけだ。

 

 結局、演奏はされたものの急遽リード・シンガーとなったグレッグ・レイクは、本番直前までこの曲の練習をしていなかったため、歌詞を覚えていないどころか符割りもあやふやなままライブに臨み、メロメロになっていた。ちなみに、その模様は“エイジア・イン・エイジア”とタイトルがつけられたMTVの衛星中継でアメリカ全土に放映された。

 

 この「ドント・クライ」のTOP10ヒットを境に、エイジアのヒット規模は2ランクほど下落。その後、デビュー時の人気を盛り返すには至っていない。苦いヒット曲になったのだ。その後はメンバー・チェンジを繰り返しながら、エイジアの名前を受け継いで活動を続け、新作をリリースし続けているが、皮肉なことにジョン・ウェットンのソロ作のほうが常にエイジアらしい作りになっている。

 

 これも、エイジアがジョン・ウェットンのバンドだったということの証明かもしれない。そして、07年にはついにオリジナル・メンバー4人での来日公演を実現し、08年にはそのメンバーでアルバム『フェニックス』を発表したのは記憶に新しい。

 

※この連載は2000~2002年に「mc elder」および「mc」で連載した内容を加筆/再構成したものです。

2010年

8月

06日

Vol.5 バーティ・ヒギンズ「カサブランカ」 2010.8.6

バーティ・ヒギンズが歌う「カサブランカ」が大ヒットしたのは1982年のこと。大ヒット、とは言ってもアメリカ本国ではヒットしていない、いわゆる日本型ヒットの典型であった。

 そもそもこの曲は、バーティ・ヒギンズのアルバム『ジャスト・アナザー・デイ・イン・パラダイス』に収録されていたアルバム・カッツ。

 

 アメリカで大ヒットした「キー・ラーゴ」(TOP10ヒット)と同様、ハンフリー・ボガートの映画にインスパイアされて作られた曲で、「キー・ラーゴ」のような曲をもう1曲、という要望から生まれたものだった。

 

 ところが、日本では「キー・ラーゴ」よりもヒット性が高いと判断され、独自にシングルカットされたといういきさつがある。

 

 ちなみに、「キー・ラーゴ」には歌詞のなかに“ボギーとバコールのようにキー・ラーゴまで船で漂ったね”というくだりがあるのだが、これはハンフリー・ボガートのフリークというバーティが、1年前に別れた恋人ビヴァリーに“愛し合っていた頃を思い出そうよ”というメッセージを込めて作った曲で、この曲のおかげでめでたくヨリを戻したバーティとビヴァリーは結婚し、2人の息子に恵まれて幸せな家庭を築いている。

 

 「カサブランカ」は、そのバーティとビヴァリーにとって、さらに思い出深い曲だった。というのも、バーティがビヴァリーと恋に落ちたときのことが、そのまま歌われているからだ。

 

 ドライブイン・シアターで「カサブランカ」を観ているうちに登場人物になりきってしまい、ポップコーンとコーラがキャビアとシャンペンに早変わりして、君の瞳にはモロッコの月が映り、古いシボレーのなかで僕らはまるで映画の主人公、と歌われる。

 

 そのうえで“キスは今ものキス、カサブランカでは。でも君のため息がなければキスもキスじゃない。戻ってきておくれ”と恋人に歌いかけているのだ。

 

 この曲が日本でシングル・カットされた頃、バーティの文学的表現に話題が集まった。映画「カサブランカ」のキーワードである“a kiss is still a kiss”そして“As time goes by”をうまく歌詞のなかに折り込んでいるからなのだが、初めての来日プロモーション・ツアーを前に意外な事実が判明した。

 

 バーティ・ヒギンズはかの偉大な文豪ゲーテの遠い子孫であるというのだ。ヒゲをたくわえたヨーロッパ的なルックスは”ウ〜ム、さすがゲーテの血筋”と納得され、フロリダの明るいカントリー・シンガーは一転して気難しい文豪の末裔に変身したのだった。

 

 もちろん、バーティ自身は何も変わっていないのだが、日本のメディアの扱い方は一変。特に新聞や一般週刊誌、写真誌はこぞって“ゲーテの末裔”と報じ、来日インタビューではあまりにもそれに関する質問が多く、バーティが辟易するという場面もみられた。

 

 何はともあれ、「カサブランカ」は文芸大作として受け入れられたという側面もあったのだ。

 

 もうひとつ、日本での大ヒットの要因になったのは、言うまでもなく郷ひろみによるカバー「哀愁のカサブランカ」のヒットとの相乗効果である。

 

 このカバー・バージョン実現の裏には、あるラジオ番組の存在がある。ニッポン放送の番組の企画で“「カサブランカ」の日本語詞募集”および“その日本語詞を歌ってほしい歌手の人気投票”を行い、その企画の最終型として郷ひろみがリスナーの作った日本語詞を歌ったのだが、改めて訳詞をつけ直してリリースされたのが「哀愁のカサブランカ」だったというわけだ。

 

 おかげで、かなり早い段階からカラオケが出回り、バーティ来日のおりには郷ひろみバージョンのカラオケで、バーティがカラオケ・スナックで熱唱、なんていうシーンもあったほどだった(その場面は、写真誌「FOCUS」の誌面を飾った)。

 

 こうして「カサブランカ」は、日本で大ヒットとなり、そのヒットが世界に波及していった、典型的かつ理想的なローカリゼーションと言えるだろう。残念ながらバーティ・ヒギンズはこれ以後、アメリカでも日本でもメジャー・ヒットに恵まれていないが、今もフロリダを本拠にして活動を続けている。

※この連載は2000~2002年に「mc elder」および「mc」で連載した内容を加筆/再構成したものです。

2010年

7月

31日

Vol.4 ビリー・ジョエル「素顔のままで」 2010.7.31

ビリー・ジョエルが20世紀を代表するソングライターのひとりであることに異論をはさむ人はほとんどいないだろう。なかでも、1978年度のグラミー賞“レコード・オブ・ザ・イヤー”と“ソング・オブ・ザ・イヤー”の2部門に輝いた「素顔のままで:Just The Way You Are」は彼の代表曲として世界中でヒット、いまでも繰り返し聴かれている名曲中の名曲だ。

 ♪流行の服なんて着ないでおくれ/髪の色も変えちゃだめよ/今のままの君が欲しいんだよ♪(訳:山本安見)と歌われるこの曲は、ビリーの最初の奥さん、エリザベスへのデディケイト・ソングだ。

 

 エリザベスはビリーの無名時代のガールフレンドで、LAでのラウンジ・ピアノマン時代から彼を支えてきた存在。73年の結婚後もUCLAの大学院で経営を学び、76年にビリーがウィリアム・ガルシアのカリブー・マネージメントを離れると、マネージャーに就任しているほどの才女だ。

 

 しかも、ビリーの運はエリザベスとの結婚を機に上向きに転じ、CBSとの契約を勝ち取り、「ピアノマン」のヒットを呼んでいる。

 

 さて、「素顔のままで」は、アメリカではアルバム『ストレンジャー』の1st シングルとして78年に最高3位を記録しているが、日本ではアルバム『ストレンジャー』が発売された頃のビリーはまだマイナーな存在だったために、当時のレコード会社の営業サイドは“発売見送り”に傾いていたほどだった。

 

 日本で1stシングルに選ばれたのは、哀愁の口笛が印象的なタイトル・トラック「ストレンジャー」。しかも、アルバム発売時には「Just The Way You Are」には「そのままの君が好き」という邦題がつけられていた。それが後にシングル・ヒットを狙って「素顔のままで」に改題された。

 

 それだけアルバムのヒットが急速だったということだ。その象徴として語り草になっているのが初来日コンサート。チケット売り出し時には集客は大丈夫かと心配されたが、ヒットが広まるにつれチケットは売り切れとなり、来日時にはチケットを求めるファンはパニック状態に陥ったほど。このときのコンサートを見たか見ていないかがファン度の違いと言われるほどレアなショーとなったのだった。

1年後の2度目の来日が日本武道館2日間公演ということからも、その急成長ぶりがわかる。

 

 アルバム『ストレンジャー』はアメリカでも大ヒットとなり、CBSとしてもサイモン&ガーファンクルに次ぐビッグ・セールスを記録。「素顔のままで」は200以上のカバー・バージョンを生み、バリー・ホワイトのバージョンは収録アルバム『バリイー・ホワイト・ザ・マン』をプラチナムに押し上げるはたらきをした。

 

 ところが、この代表曲はいつの頃からかビリーのステージで演奏されなくなってしまった。2番目の奥さんクリスティー・ブリンクリーの嫉妬が原因だ。ビリーはエリザベスと82年に離婚。同じ年バカンスで立ち寄ったカリブ海の島で、スーパー・モデルのクリスティーにひと目惚れし、「イノセント・マン」「テル・ハー・アバウト・イット」「アップタウン・ガール」と次々に歌で口説いて84年に結婚した(94年、離婚)。

 

 このクリスティーが「エリザベスに捧げた曲なんて聴きたくない!!」と封印してしまったのだ。以来、グラミー2冠達成曲は、ビリーのステージのソング・リストから外されてしまった、というわけだ。実生活に則したビリーのソングライティングが生み出した“珍事”だが、この話、ここで終わらない。じつは、ヒット曲を封印してしまったクリスティーとの離婚が決まると、「素顔のままで」は生き返り、ステージでも披露されるようになったが、今度は「アップタウン・ガール」が封印されてしまったのだ。理由はいたって簡単。独り身になったビリーが新しく恋をした相手に気遣って、ビリーが自主的にクリスティーの思い出につながる曲を、お蔵に入れてしまったのだ。やれやれ。

※この連載は2000~2002年に「mc elder」および「mc」で連載した内容を加筆/再構成したものです。

2010年

7月

25日

Vol.3 イーグルス「ホテル・カリフォルニア」2010.7.25

言わずと知れたイーグルスのメガヒット「ホテル・カリフォルニア」は、イーグルスにとって栄光の金字塔であると同時に、悩みの種でもあったようだ。

ジョー・ウォルシュは「あのヒットのおかげでノイローゼ寸前だった。周りは“次はなんだ?”とせっついてくるし、実際のところオレたちにもどうしたらいいかわらなかったんだ」と、回想している。

 

 大ヒットを引っさげての大規模なワールド・ツアーの最中にも次のことを考えなければいけないという精神的苦痛と、ツアーに明け暮れる毎日に疲れ果ててランディ・マイズナーが脱退するという物理的困難、さらには「ホテル・カリフォルニア」のリード・ボーカルをとったドン・ヘンリーにスポットが当たり過ぎたために生じたメンバー間の軋轢、特にグレン・フライとドンの不仲説という不協和音。1曲の大成功が栄光をもたらすと同時にバンドに暗い影を落とす原因にもなったのだ。

 

 ところで、この「ホテル・カリフォルニア」とジョー・ウォルシュにまつわる面白いエピソードがある。この曲の有名なイントロで聴かれるアコースティック・ギターの響き、これはジョーのタカミネ・ギターなのだが、ジョーはこのギターを借金のカタにキース・オルセンに取られてしまったというのだ。

 

 ジョーが、キースのプロデュースのもと、キースのスタジオに詰めているとき、その“事件”は起こった。スタジオに備え付けてあったワインセラーからキース自慢のワインの名品をジョーが30日間で110本も飲んでしまった。これを知ったキースは激怒。代金の支払いを求めたところ、ジョーには手持ちのお金がなかったので、例のタカミネ・ギターを出したのだった。その後、そのギターはキースからスコーピオンズに渡り、名曲「ウィンズ・オブ・チェンジ」で使われている。

 

 また、ジョー・ウォルシュがソロ・ツアーのレパートリーに「ホテル・カリフォルニア」と「駆け足の人生」を加えたことにドン・ヘンリーが「あの2曲は彼の曲じゃない」と反発し、これがもとで一度はまとまりかけた1990年の再結成企画はつぶれてしまった。実際、このとき再結成は本当に秒読み段階まで来ていたと言われている。ところが、正式な契約が交わされる直前にジョー・ウォルシュがマスコミに対して「すでにリハーサルを含めて進行中で、すべてのメンバーも納得している。

 

 僕も含めてみんな、イーグルスとして活動することを楽しみにしているんだ」と、リーク。再結成決定と報じられて大騒ぎになったといういきさつもあり、ドンはもちろん、グレンもヘソを曲げて再結成企画は白紙に戻ってしまったのだった。

 

 結局、イーグルスのリユニオンは1994年までズレ込むことになる。ただし、ようやく実現したリユニオンは、メンバーの積極的なアプローチではなく、カントリー界からの待望論が直接の引き金に成った。

 

 93年にカントリー・アーティストたちがイーグルス・ナンバーをカバーしたトリビュート・アルバム『コモン・スラッド』が話題になり、そのアルバムからのリード・トラックとなったトラヴィス・トリットの「テイク・イット・イージー」のPVでドン・ヘンリー、グレン・フライ、ドン・フェルダー、ジョー・ウォルシュ、ティモシー・B・シュミットの5人が共演した。

 

 ここを発火点として世論が再結成のお膳立てをしたわけだが、カントリー界からのトリビュートということもあって、13曲ピックアップされたイーグルスの名曲群のなかに「ホテル・カリフォルニア」はなかった。だから、94年4月になって、MTVのアンプラグド・ライブで、アコースティック・バージョンにはなっていたものの、久しぶりにイーグルスが演奏する「ホテル・カリフォルニア」を体験したオーディエンスは大いに興奮したのだった。

 

 こうしてリユニオンして、世界中をツアーしたイーグルス。日本でも再び「ホテル・カリフォルニア」に対する注目度が高まり、ドラマ「その気になるまで」のテーマとして話題を集め、リバイバル・ヒットすることになる。オリジナル・が全米No.1になってから20年という歳月が流れていた。

 

 そして、2000年。20世紀を締めくくる形で発表されたボックス・セット、「EAGLES SELECTED WORKS 1972-1999」には、ミレニアム・ライヴ・バージョンの「ホテル・カリフォルニア」が収録され、ファンには4つのタイプ(オリジナル、70年代ライヴ、再結成アコースティック・ライヴ、ミレニアム・ライヴ)のこの名曲を楽しめることになった。

※この連載は 2000~2002年に「mc elder」および「mc」で連載した内容を加筆/再構成したものです。

2010年

7月

14日

Vol.2 ドン・ヘンリー「エンド・オブ・ジ・イノセンス」2010.7.14

イーグルス解散後、ソロとして初のチャート・ヒットとなったスティーヴィー・ニックスとのデュエット曲「レザー&レース」から8年弱。1989年の夏、“ヴォイス・オブ・「ホテル・カリフォルニア」”として知られるドン・ヘンリーが3枚目のソロ・アルバムを発表した。

 『エンド・オブ・ジ・イノセンス』というタイトルがつけられたこのアルバムは、彼にとって初のTOP10ヒット(ビルボード・アルバム・チャート)となり、タイトル曲は5曲目のTOP10シングルとなった。同時に、1985年の「ボーイズ・オブ・サマー」に続く2度目の最優秀ロック・ボーカル賞も獲得するなど、彼の代表曲のひとつにもなった。そして、この頃から彼は、あるプロジェクトにのめり込んでいくことになる。それが“ウォルデン・ウッズ・プロジェクト”である。

 

 このプロジェクトは、いわゆる環境保全チャリティのようなものと理解すればいいだろう。アメリカの環境保護運動の草分けで、ナチュラリストの教祖的存在であるヘンリー・デヴィッド・ソローが、マサチューセッツ州のウォルデンの森を乱開発から守ろうという運動を起こしたのが始まりだが、ドンはソローの活動に大きな影響を受け、自ら主宰する“ウォルデン・ウッズ・プロジェクト”を発足。

 

 森を買い上げて開発から守るという運動を展開している。96年現在で86エイカーの土地を所有するとともに、ソロー・インスティテュートという名前の環境教育機関を設立し、積極的に活動している。イーグルスの再結成で来日した折りにも、ウォルデン・ウッズ・プロジェクトの資金集めに熱心だったが、その胸の内をドンは次のように語った。

 

 「ウォルデンの森を守るということは、人間の尊厳を守るということなんだ。人間はかつて母なる地球と仲良く暮らしていた。しかし近年、人間は傲慢になってしまった。ヘンリー・デヴィッド・ソローは、人間が人間らしく、温かい心を持っていた時代を取り戻すためには、人間が自らの手で地球を、つまり母親を傷つけるなどという馬鹿げたことがあってはならないと言っている。そのことを少しでも多くの人々に理解してもらいたいんだ。だから、ウォルデンの森だけ守ればいいというわけではないよ。ほかにもたくさんの人が有意義な活動をしている。僕のやっていることは、そのなかのほんの小さな手助けに過ぎないんだ」

 

 そんな話を聞いた後、頭の中に浮かんできたのが、この「エンド・オブ・ジ・イノセンス」だった。♪大地に仰向けに寝転んで、僕のそばでくつろぐがいい/最後の守りを固めるんだ/だけどこれでもう終わり/無邪気なままでいられるのはもうこれっきりなんだ♪(中川五郎氏の対訳より)という意味深な歌詞と、ブルース・ホーンズビーの手になる哀愁のメロディーが、見たこともないウォルデンの森の上を流れる風を感じさせたのだった。

 

 さて、ドン・ヘンリーの歴史をひも解いてみると、70年代のウエストコースト・ロッカーに多く見られるように、ドラッグとの戦いが見て取れる。これは、60年代後半に一世を風靡したヒッピー・カルチャーの名残であるというのが定説になっているようだが、そのヒッピー・カルチャーの中心的人物、つまり精神的支柱として存在した偉人こそが「ウォルデン」というタイトルの本を書いたヘンリー・デヴィッド・ソローその人であるというのも面白い。

 

 そして、イーグルスの本拠地、西海岸方面には、もうひとりの偉人がいる。ジョン・ミューアだ。いまではシェラネバダ山脈を南北に走り、マウント・ホイットニーからヨセミテ公園を結ぶ、ジョン・ミューア・トレイルという自然歩道にその名を残している人物。このジョン・ミューアとヘンリー・デヴィッド・ソローが、アメリカのネイチャー思想の双璧をなす師であり、ヒッピー・カルチャーから生まれた“反戦”“自給自足”“自然暮らし”“自由人”といった精神の拠り所とされているのは興味深い。

 

 今、ドン・ヘンリーはドラッグの罪を説きながら、自然を愛好する、環境教育家としての顔も持っているわけだが、彼が2000年に発表したアルバム『インサイド・ジョブ』では、そんな彼の人生が脈々と描かれている。なかでも、「グッバイ・トゥ・ザ・リヴァー」という曲は、ウォルデンの森とともに環境問題を取り上げてきた彼にとっての集大成と言っていい内容になっている。

 

収録曲

1. End of the Innocence

2. How Bad Do You Want It?

3. I Will Not Go Quietly

4. Last Worthless Evening

5. New York Minute

6. Shangri-La

7. Little in God

8. Gimme What You Got

9. If Dirt Were Dollars

10. Heart of the Matter

2010年

7月

12日

Vol.1 マドンナ「クレイジー・フォー・ユー」 2010.7.12

上のYoutubeリンクはThe Official Warner Bros. Records YouTube Channel(ワーナーブラザーズレコード公式のYouTubeチャンネル)へのリンクです。クリックすると、「埋め込みがリクエストにより無効になっています。Youtubeで見る」と表示が出ますので、下線の文字リンクを押していただければ、Youtubeにジャンプし公式動画を見ることができます。

 

http://www.youtube.com/watch?v=A2pYLcdrcQs&feature=related

 

本コラムの記事に関連した過去の懐かしい楽曲を知っていただくための参照リンクを提供しています。

 

 

どんなアーティストでも、そのキャリアの転機となるヒット曲というものがある。マドンナの場合は「クレイジー・フォー・ユー」だったのではないだろうか。マドンナは「ライク・ア・ヴァージン」の全米No.1で一躍注目を集めてはいたものの、まだ“ディスコから出てきた、ラテン系の怪しげなダンス・クイーン”というイメージで、スーパースターにはほど遠い存在だった。本当の意味で、彼女が“大スターの扉“を開けたのが、このバラード曲の全米No.1だったのだ。

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※この連載は2000~2002年に「mc elder」および「mc」で連載した内容を加筆/再構成したものです。