Vol.46 ナイト・レンジャー「ドント・テル・ミー・ユー・ラヴ・ミー」 2011.6.11

 1982年7月、中野サンプラザを埋めた満員の観客は予期していない興奮に襲われていた。オジー・オズボーン待望の初来日コンサートだが、本来であればオジーの横には“天使と悪魔”とさえ形容された美貌のギタリスト、ランディ・ローズがいて、華麗なギターを聴かせてくれているはずだった。ブラック・サバス脱退後、自らのバンドを結成したオジー・オズボーンにとって、ひとつの売り物が元クワイエット・ライオットに在籍していた天才ギタリスト、ランディ・ローズだったが、そのお披露目にもなるはずだったこの初来日公演を前に、4ヶ月前の3月に飛行機事故で他界していまい、日本のファンは永遠にオジーとランディの2ショットを見ることはかなわなくなってしまったのだった。誰もが来日は中止だろうと思ったが、オジーはランディの代役としてブラッド・ギルスを指名。ともに来日を果たした。

 コンサートを前にしたオジー・ファンの多くは、当時全く無名だったブラッド・ギルスに対してほとんど期待することもなく、むしろランディのフレーズをこなせるのだろうかと心配すらしていた。ところが、ショーが始まってしばらくすると、ランディとはスタイルは違うもののブラッドの力強いプレイに、観客は酔いしれたのだ。この瞬間が日本のファンとナイト・レンジャーとの初めての接点であっただろう。

 じつは、この来日の時点でナイト・レンジャーのデビュー・アルバム『ドーン・パトロール』は完成間近の状況で、ブラッドはこのツアーが終わったら直ちにナイト・レンジャーのアルバムのフィニッシュにとりかかるという時期だった(このときはまだレンジャーと名乗っていたが)。ところが、オジーはと言えば、「こんなギタリストを俺が手放すわけがないだろう。ブラッドはオジー・バンドのギタリストさ」と話すほどご執心で、事実、ブラッドに対してバンドへの残留を依頼していた。ところが、ブラッドのハラはすでに固まっており、一刻も早くバンドの仲間とアルバムを仕上げたいモードだったから、ジャパン・ツアー終了と同時にファイナルの作業に入り、この年の暮れにはデビュー・アルバム発表にこぎ着けたのだった(日本では翌83年の発売になった)。そして、この曲がそのアルバムからの第一弾シングル、すなわちデビュー曲になった。本国アメリカでは正直に言ってパッとしないすべり出しだったが、日本ではオジー・バンドでのブラッドの知名度も手伝って、デビュー直後から売れ始めた。当時のトップ・アイドル、シブがき隊のヒット曲「ZOKKON命」のイントロにパクられたことも洋楽シーンでは大きな話題となったりするなどして順調に日本での地位は固またいったのだが、アメリカでの不振を脱することはできず、日本との人気の格差が徐々に顕著になっていった。

 そんな折り、83年にはナイト・レンジャーの初来日公演が実現。8本指奏法(オクトパス奏法)を操るギタリスト、ジェフ・ワトソンの“速弾き”と、トレモロ・アームを効果的に使う“味弾き”が持ち味のブラッド・ギルスという2枚看板と、エモーショナルなオーカル・スタイルのジャック・ブレイズのフロント3人の強烈な個性が売りのナイト・レンジャーの魅力はライブでこそ生きると、当時の日本のレコード会社CBSソニーは考え、新宿厚生年金会館で行われたライブを丸ごとビデオ撮影することを決め、彼らのジャパン・ツアー終了後、大規模なフィルム・コンサート・ツアーを計画した。そして、実際にビデオ・シューティングが行われ、北は北海道から南は鹿児島まで全国でのフィルム・コンサートのスケジュールが組まれていったのだが、その肝心のライブ・ビデオはナイト・レンジャーのマネージメント・オフィスが若干の手直しがあるという理由でアメリカに持って帰ってしまった。日本の関係者の間では大騒ぎになったが、結果的にはそれがナイト・レンジャーのアメリカでの人気爆発につながったのだった。

 日本から持ち帰ったライブ・ビデオを手直ししているときだった。たまたまその模様を目にしたMTVの関係者が、それをMTVで放送することを提案。マネージメントとCBSソニーの話し合いにより、日本でのフィルム・コンサートより先にMTVでの放送が決まり、知名度のあまり無い新人としては異例の1時間スペシャルの枠が用意され、それをきっかけにナイト・レンジャーは大ブレイクしていくことになる。ただ、フロントマンのジャックではなく、ドラムスのケリー・ケイギーが歌うバラード・ナンバー「シスター・クリスチャン」が大ヒットしてしまい、以後ナイト・レンジャーはバラードの名曲を作り続けなければならなくなるという皮肉はあったが。

 ちなみに、日本でのフィルム・コンサート・ツアー、そのクライマックスの中野サンプラザはフィルム・コンサートにもかかわらず満員となった。