Vol.31 グレン・メデイロス「シー・エイント・ワース・イット」 2011.2.19

1980年代から90年代にかけて日本でアイドル的な人気を獲得したグレン・メデイロスは、86年のデビュー時にはわずか16歳。あどけない顔立ちのわりには、しっとりとしたバラードを歌うと評判になり、日本でも一躍人気者の仲間入りを果たした。そのグレン・メデイロスにとって、アメリカのマーケットは近くて遠い存在だったようだ。

 

 アメリカ・ハワイ州で生まれ育った彼は、15歳の時に地元のFM局KWAIが主催したタレント・オーディションに参加して見事に優勝した。この時のレパートリーが後のデビュー曲となる「ナッシング・ゴナ・チェンジ・マイ・ラブ・フォー・ユー」で、この曲を正式にレコーディングし、そのシングルがアメリカ本土のDJの手に渡り、番組でオンエアされたところリクエストが殺到。レコード会社が獲得に乗り出して…。と、サクセス・ストーリーを展開し、デビューするや、シングルはチャート12位まで上昇。大いに将来性のある若手シンガーとして業界も注目した。しかし、アメリカのシングル・チャートを制するのはじつに、それから約4年後のことである。

 

 ボビー・ブラウンとのデュエットで話題となった「シー・エイント・ワース・イット」が、3枚目のアルバムの最初のシングルとして90年5月にチャートに登場すると、グングン上昇を始め、同年7月に念願のNo.1をゲットすることになる。グレン20歳の夏だった。ここに至るまでの間、日本はもちろん、イギリスをはじめとするヨーロッパやアジア各国では、すでにトップ・アイドル、若手男性シンガーとしての地位を確立していたから、グレンにとってアメリカのマーケットは最後にやっと手にした、近くて遠い存在だったのだ。

 

 デビュー後3年間は大きなヒットに恵まれなかったものの、社交界では人気者となり、デビー・ギブソンやティファニー、ニュー・キッズ・オン・ザ.ブロック、トミー・ペイジ、ジェッツなど、若手同士の交遊録では常に中心に位置していたようだ。そんな交遊録と、アメリカでのレコード会社がMCAに代わったことがグレンにとっては転機になった。

 

 アメリカ以外の各国での人気に目をつけたMCAは、移籍第一弾アルバムのためにスタイリスティックスやレイ・パーカーJr.といった大物ゲストを配し、“本気”で狙ってきたわけだが、そのゲスト陣のなかにボビー・ブラウンもいた。このボビー参加の影にいたのがリック・ジェイムスで、彼の仲介で会ったボビーとグレンはすっかり意気投合。グレンはボビー参加の快諾を得たのだが、しかし最初は「ラブリー・リトル・レディース」という曲を作/プロデュースしてもらうに止まっていた。その後「シー・エイント・ワース・イット」にラップを入れたいと考えたグレンが、直接ボビーをスタジオに連れてきて、バラード・シンガーのグレンには珍しいジャンプ・ナンバーが完成したのだった。

 

 イメージ・チェンジと言ってもいい曲でアメリカのチャートを制したわけだが、日本やイギリスではこの曲の評判は当初、驚くほど低かった。日本、イギリスともにデビュー曲の「ナッシング〜」がNo.1になっていることからもうかがえるように、アジアやヨーロッパのマーケットにとってグレンはあくまでも“デヴィッド・フォスターばりのアダルト・コンテンポラリーを歌いこなす、若くて甘いマスクの男の子”だったわけで、ボビー・ブラウンとの共演というニュースが舞い込んだ時点から両マーケットは違和感を抱いていた、というほうが正しいのかもしれない。事実、日本ではさほどヒットせず、アメリカでのNo.1で多少追い風が吹いた程度で「ナッシング〜」を上回ることはなかったし、イギリスでもとうとうTOP10に入ることはなかった。結果、バラードとダンスの狭間に揺らされて、アメリカのNo.1という称号を得た代わりにグレンの活動は縮小していってしまった。

 

この曲は、失ったものがあまりにも大きかった“悲運の”ヒット曲と言えるかもしれない。