1986年に発表したアルバム『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』が1000万枚を超える売り上げを記録し、続く88年のアルバム『ニュージャージー』も700万枚セールスとなり、ビルボード・アルバム・チャートで2作連続のNo.1を獲得したボン・ジョヴィ。11月3日にリリースされたばかりのベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』も好調なセールスを記録。ハードロック/ヘヴィメタルの分野のみならず、広い年齢層にアピールしてきた彼らの根強い人気を改めて見せつけているが、ロック/ポップスの若きリーダーとして活躍したボン・ジョヴィの90年代は、2人のフロントマン、ジョン・ボン・ジョヴィとリッチー・サンボラの映画対決で幕を開けた。
リッチーは、アンドリュー・ダイス・クレイ主演の映画「フォード・フェアレーン」のサントラでジミ・ヘンドリックのカバー「風の中のマリー」にソロ参加。
これに対して、ジョンは、エミリオ・エステベス、キーファー・サザーランドの主演映画「ヤング・ガンズ2」にテーマ曲となる「ブレイズ・オブ・グローリー」を提供しただけではなく映画のスコア制作も手がけ、チョイ役ではあるものの、カウボーイ役で友情出演。話題性においてリッチーを上回るものになり、この対決はジョンに軍配が上がったと言われたわけだが、そうした勝負の行方にこだわっていたのは音楽マスコミだけだったようだ。
当のジョンは、このサントラ・プロジェクトを“アーティストとしての成長に必要な実験場”と捉えていたようで、リトル・リチャード、ジェフ・ベック、さらにはエルトン・ジョンといった先達たちと刺激的なセッションをしたことで、人間的にも音楽的にも大きく成長した、と後のインタビューで語っている。
また、このときの“カメオ・アピアランス(チョイ役での出演)”をきっかけにして演技の勉強をすることになり、映像エンタテイメントに目覚めた彼が今では俳優としてのキャリアも誇っていることを考え併せると、「ヤング・ガンズ2」のプロジェクトはジョンにとって非常に大きなターニング・ポイントだったと言える。
1992年のアルバム『キープ・ザ・フェイス』までの間、ジョンはソロ活動に入っていて、90年から91年はユニークな活動も多くなっているのが興味深いところ。結局、「ブレイズ・オブ・グローリー」は、ゴールデン・グローブ賞においてベスト・オリジナル・ソング賞に輝いたし、アカデミー賞の受賞は逃したもののノミネートされたことで授賞式では映画関係社を前に「ブレイズ・オブ・グローリー」をパフォーマンスしたりと、この時期に映画関係者との付き合いが密になっていったのも想像に難くない。また、サントラで共演したのが縁となって、エルトン・ジョンとバーニー・トーピンのトリビュート・アルバム『トゥー・ルームス』でエルトン・カバーを披露するなど、ファンにとっては違った一面をたっぷりと見ることのできた2年間だった。
違う一面と言えば、チャリティ活動を活発に行い始めたのもこの頃からで、バンドとして「メイク・ア・ディファレンス・ファウンデーション」のチャリティに参加したのに続き、個人的には彼自身の母校であるセイヤービル・アホー・メモリアル高校の生徒たちを対象に、音楽が好きで勉学のかたわら音楽活動を行っている将来有望な高校生に奨学金を与え、いいミュージシャンに育ってもらおうという主旨の基金を設立したり、難病で苦しむ子どもたちを救済するチャリティ・コンサートをソロ・アクトとして行ったり。これらの活動が評価され、90年11月には、シルバー・クレフ・アウォードをバンド・メンバーとともに受賞している。
さらにはボン・ジョヴィのコンサートに横行していたダフ屋のために、青少年たちが高額のチケットを買っているという実状をファンレターを通して知ると、関係者にはたらきかけてダフ屋を取り締まる州条例の制定に寄与したり(実際にペンシルバニア州では転売を禁止する州条例が誕生・施行された)と、まさに通常の音楽活動を飛び越えたところで、社会現象にもなったのだった。
その象徴でもあったのが、ソロ作品でありながら、全米シングル・チャートにおいて5曲目のNo.1になったこの曲だった。