日本において、あるいはイギリスにおいては、ディープ・パープルのボーカリストとして確固たる人気と地位があったデヴィッド・カヴァーデールも、じつはアメリカにおいては1987年の「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」の全米No.1ヒットまでは、ほぼ無名の存在だったと言っていいだろう。
ディープ・パープルの『バーン』がアルバム・チャートのTOP10にランクされたとは言え、それは1974年のこと。77年にホワイトスネイクとしてデビューしてからは、語るべき実績がないまま、いたずらに時を過ごしていたのだ。
転換点になったのは1984年、アメリカのディストリビューションをゲフィンに変えたことだった。
当時のゲフィン・レコードには、後にSMEで“再生屋”として活躍したジョン・カロドナーがいた。エイジアのプロジェクトでプログレおやじたちを立ち直らせ、ジャーニーの再結成を仕掛けた敏腕A&Rである。
ジョンは、デヴィッド・カヴァーデールに対し、アメリカのマーケットにおける成功を約束する代わりに、アルバム制作のイニシアチブを自分に委ねるよう要求したが、この取引は50%だけ達成された。というのも、ホワイトスネイクはヨーロッパでの成功を捨ててアメリカ進出に賭けるだけの思い切りはなかったからだが、そこで採られたアイデアとはアメリカでのリリースに際してはリミックスを行うというものだった。
こうしてゲフィンにおける第一弾アルバム『スラッド・イット・イン』で手応えをつかんだデヴィッド・カヴァーデールは、早速次回作に取りかかった。それが1987年、アルバム・チャートで最高位2位を記録した『サーペンス・アルバス』というアルバム。このアルバムを勝負作と考えたジョン・カロドナーは、オリジナル・バージョンに満足せず、“アメリカ・リミックス・バージョン”の制作を求めた。いわゆるハードロック/ヘヴィメタルの音質よりもポップなロックでアメリカン・マーケットを勝ち取ろうとしたのだった。
鳴り物入り、自信たっぷりでカットしたアルバムからの第一弾シングル「スティル・オブ・ザ・ナイト」は、当時のジョン・カロドナーの弁によれば「この曲がホワイトスネイクこそレッド・ツェッペリンの後継者に相応しいことを証明してくれる」ものだった。が、シングル・マーケットは反応せず、成績としては今イチだった。
これでジョンをいよいよホワイトスネイクをポップなロック・バンドとして売り出そうという発想になっていったわけだが、続く第2弾シングル「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」がバンドの将来を決める崖っぷちの曲であったことも確か。だからこそ、ジョンは二重三重の保険をかけていた。
まず「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」は元々、ホワイトスネイクが82年にイギリスで大ヒットさせた曲だった。すなわち、セルフ・リメイク。また、当時のアメリカではMTVで話題になることがヒットに不可欠だったから、リリース前にPVも用意。さらに、アルバム・バージョンではポップさが足りないと感じたジョンは、シングル用のレコーディングを行うことを決意。なんとメンバーを、オリジナル・バージョンからデヴィッド以外は全員入れ替えてポップなミュージシャンでカラオケを作り、それに乗せてデヴィッドが歌うという、およそハードロック・バンドらしからぬ手法を採用して再録音を行ったのだった。
文字通り背水の陣でリリースされたシングル「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」は見事にアメリカン・チャートを制したわけだが、このポップ版「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」はイギリスでもリリースされ、最高位9位を記録している。
こうしてアメリカのマーケットを手に入れたデヴィッド・カヴァーデールは、この後バンドという形での活動にこだわらず“ホワイトスネイク”を自らのプロジェクトと考えるようになっていった。そして、続くヒットの「イズ・ジス・ラブ」のビデオで競演したトゥニー・キテイン嬢と89年に結婚。ヒット曲、名声、そして幸せな家庭を手に入れたデヴィッド・カヴァーデールにとって、この数年間がまさに“我が世の春”だった。