Vo.17  オリヴィア・ニュートン・ジョン&ELO「ザナドゥ」 2010.11.16

 1980年に公開された映画「ザナドゥ」は、いろいろな意味でエポックとなった映画だった。

 

78年に「グリース」で脚光を浴びて、それまでの低迷を脱したオリヴィア・ニュートン・ジョンにとって2匹目のドジョウを狙った主演映画作品であり、ジーン・ケリーが久しぶりにタップ・ダンスを披露するといった話題が先行した期待の映画でもあった。しかし、公開してみると興行成績は伸びず、映画はお世辞にもヒットしたとは言えない状況となった。

ところが、なぜかサントラ盤は大ヒットとなり、シングル・カットされたオリヴィア・ニュートン・ジョンの「マジック」は全米No.1。クリフ・リチャードとのデュエット「恋の予感」は最高位20位を記録。さらに、ELOの「アイム・アライブ」「オールオーバー・ザ・ワールド」はそれぞれTOP20内に入り、ELOとオリヴィアが競演したデュエット曲「ザナドゥ」も最高位8位を記録する大ヒットとなるなど、アルバムは商業的には大成功となったのだった。当時、映画とサントラ・アルバムのヒット状況がここまで違うのは珍しい現象だったのだ。

 

それはともかく、このサントラのプロジェクト。発端はじつはELOのリーダー、ジェフ・リンの結婚にあった。彼の奥方サンディはハリウッドの映画関係社と親交が厚く、ビバリーヒルズのジェフの家、ならびに所属レコード会社であったジェット・レコード社長ドン・アーデン(オジー・オズボーン夫人シャロンの父親)の家では、さかんにホーム・パーティーが開かれていた。そのなかで映画のプロデューサー、リー・クレーマーからオリヴィアを主演にした映画の構想がジェフに話され、音楽制作の依頼を受けることになったのだ。

 

ジェフ・リンは早速、10曲に余る曲を書き上げたが、なかでも主題歌となった「ザナドゥ」はオリヴィアが歌うことを想定してメロディーを練ったものだ。この曲の最後の部分で、ジェフ・リンはオリヴィアに究極の高音を出すことを要求したという。オリヴィアにとってはレコーディングでは初挑戦の音域だったということだが、なんだかプロデューサーとしてヒットを連発していた頃の小室哲哉の手法のようではないか。ともあれ、ELOがバック・トラックを担当しオリヴィアが歌ったこの曲は、イギリスではELOにとってもオリヴィアにとっても初のNo.1ヒットとなったのだった。

 

ちなみに、映画の制作が進む過程でちょっとしたトラブルが発生した。映画音楽を担当するクリエイターが2人いたからだ。ひとりはもちろん、ジェフ・リン。もうひとりはオリヴィアの古くからのパートナー、ジョン・ファーラーだ。当初、2人のクリエイターの役割分担がはっきりしていなかったため、2人とも曲を作り過ぎたのだ。結局、オリヴィアが歌うシーンはジョン・ファーラーが、歌わないシーンにはジェフ・リンがプロデューサーとして起用されてうまく棲み分けが成ったのだが、唯一の例外が「ザナドゥ」だった。それ以外は、レコードのA面がELOでB面がジョン・ファーラー(=オリヴィア・ニュートン・ジョン)とサイドが分けられ、発売元もアメリカがオリヴィア所属のMCA、世界(アメリカ以外)はELO所属のジェットというふうに完璧に分けられ、ELOとオリヴィアが関わったのは「ザナドゥ」のみだった。

 

今やELOの名前を聞いてピンとくるファンは少ないかもしれないが、70年代のTOP40ヒットにおいてはポップス界きっての“スマッシュ・ヒッター”だった。No.1を何曲も輩出するといった派手さはないものの、出すシングルは必ずと言っていいほどTOP40にエントリーされる。いわばアベレージ・ヒッターだったわけだが、それまではバンドのなかにオーケストラを持っているという特異性でヒットを重ねてきたのに対して、この「ザナドゥ」の大成功以降、4人のロック・コンボのみでポップスを表現するという80年代のスタイルを確立させることにもなり、その意味でもELO、とくにジェフ・リンにとってエポック・メイキングなプロダクトだったと言えるだろう。

 

また、オリヴィアの長年のファンにとっては、ジョン・ファーラー以外の「男」とのコラボレーションを興味深く見た人もいただろう。そのジョン・ファーラーとのコンビ、2000年のシドニー・オリンピックの開会式でも息の合ったところを見せつけたが、ここまで長い間、コンビを保っているアーティストとクリエイターというのも、今となっては非常に珍しい関係と言えるだろう。お互いにとって、持つべきは良き理解者ということか。