Vol.42  マライア・キャリー「ビジョン・オブ・ラブ」  2011.5.14

1990年に彗星の如く登場し、一躍ポップス界のディーバとなったマライア・キャリー。デビュー時のシンデレラ・ストーリーは伝説にすらなっている。すなわち、「デモテープをトミー・モトーラSME社長に手渡したところ、トミーはパーティーの帰りの車の中でそれを聴き、急いで引き返してパーティーの席上で契約を約束した」というもの。もちろん、この逸話は事実なのだが、デビューまでのいきさつにはもっと深いストーリーがある。マライアがデモテープを作り始めたのは、正確なことはわからないが、86年頃のこと。それからデビューまでの4年間に彼女がデビューしていきなりディーバの座を掴むことが約束される状況が整っていたのだ。

 トミー・モトーラ社長は、社長として特定のアーティストのスター化に寄与したということがなかったので、一部のマスコミはホイットニー・ヒューストンを当てたアリスタのクライヴ・デイヴィスと比較して“お飾り社長”と皮肉ったりもした。それだけに、トミーは“秘蔵っ子”を欲しがっていたとされている。その一人がマルティカ。88年にデビューし、2 nd シングルを全米No.1にしたことで次作に注目が集まるなか、89年のソニー・グループ全体のコンベンションではマルティカがプライオリティ・アーティストとして紹介された。じつは、その時すでにマライア・プロジェクトは動き出しており、89年の時点でデビューすることも可能だった。が、それを止めたのは他でもないトミー・モトーラだった。“90年代のディーバ”として売り出すにあたり、90年デビューということにこだわったトミーは、敢えてデビューを遅らせ、“90年にデビューした20歳”というキャッチフレーズのもと、“90年代はマライアの時代”という戦略を組み立てていった。

 かくして、ナラダ・マイケル・ウォルデンに始まり、ヴァーノン・リード、オマー・ハキム、マイケル・ランドゥ、マーカス・ミラー、リチャード・ティー、リック・ウェイクといったトミー・モトーラ人脈が集められ、慎重にデビュー・アルバムは作られた。

 しかも、トミーが中心になって徹底的にイメージ作りも行われた。マライア自身は、元々社交界とは縁遠い生まれ。だから、スーパーで3,000円程度で売っている衣装を身にまとってステージに上がる、なんてこともしばしばだったのを、トミーが華やかな場に連れ回して意識改革をはかった。また、インタビューなどは想定問答集を作って“こう聞かれたら、こう答える”といった教育を施し、徹底的な管理システムのもと、マライアはデビューしたのだった。このトミーの作戦が功を奏したのかどうかは別にして、デビュー曲「ビジョン・オブ・ラブ」は見事全米No.1に輝き、その後カットする計4枚のシングルもすべてNo.1になるという、破格のデビューとなり、そのシンデレラ・ストーリーがよりドリーミーに流布されたわけだ。

 トミーが、ただひとつ、あまり口を挟まなかったのが、音作りに関してだったと言われており、1作目のナラダ・マイケル・ウォルデンも2作目のアルバムを手がけたウォルター・アファナシェフも、基本的にはマライアの意向を尊重したという。この時すでに、トミーとマライアはいつ結婚してもおかしくない状況にあったが、マライアがあまりにも早くスターダムにのし上がってしまったこともあって、結婚の時期は慎重に選んでいたようだ。結局、結婚したのは、アルバム『MUSIC BOX』を制作する最中、93年のこと。しかし、結婚を機にトミーの“カゴの鳥”囲い込み作戦はさらに激化し、音楽界で自我を持ち始めヒップホップ界との交流が深まったマライアが、ついに“切れて”98年に離婚。その後のマライアは、言動もファッションも、トミーの管理下にいたときとは比べようもなく奔放になっているが、それがじつは彼女の“地”であるのかもしれない。それでもトミーにとってマライアを発掘/売り出したという実績は残ったわけだから、「ビジョン・オブ・ラブ」は双方にとって大きな意味を持ったことになる。

 ちなみに、トミーが次に入れ込んだのはジェニファー・ロペス。その活躍ぶりは周知の通りだ。