“一発屋”という言葉がある。定義として言えば、権威あるチャート、例えばビルボードのシングル・チャート(HOT100)に、1曲のみ送り込んで消えていったアーティストということになる。しかし、俗に一発屋という場合、こうした定義に関係なくイメージで捉える場合も少なくない。「マイ・シャローナ」のナックがいい例だろう。他にもちゃんとヒットがあるのに、その曲のヒットの印象だけが特に強烈だから“一発屋”という冠をつけられている。同じように、ボーイ・ミーツ・ガールも3曲のチャート・ヒットを放ちながら一発屋と言われている。それだけ「スター・トゥー・フォール」のヒット感が強烈だったということだ。
ボーイ・ミーツ・ガール。このあたかもアイドルのような名を持つのはシャノン・ルビカムとジョージ・メリルの夫婦デュオで、ヒットを放つ前からソングライター・チームとしてポップス界に多大な貢献をしていた。2人はシアトルの出身で、飛行機で有名なボーイング一族の娘の結婚式で出会ったそうだ。そのときジョージ・メリルはまだ高校生だった。
以来、2人は地元のマイナー・バンドの同僚として、あるいはソングライター・チームとして、11年の長きにわたって共同作業をすることになる。売れない頃には「フットルース」のサントラ曲でもあるデニース・ウィリアムスの「レッツ・ヒア・ボーイ」のバックでコーラスを担当したりもした。そんな2人がソングライターとして契約したのは84年。そして、チャンスは86年にめぐってきた。ジャネット・ジャクソンのために、という依頼を受けて作った曲「恋は手さぐり」がジャネットには採用されなかったものの、ホイットニー・ヒューストンにピックアップされて、ホイットニー2曲目の全米No.1となったのだ。
一躍認められた2人は再びホイットニーのために「アップテンポの曲を」という依頼を受けた。この曲が生まれたのは、その頃のことだ。
ホイットニーがLAのグリーク・シアターでコンサートを行った夜、2人もそのステージを見ていた。「恋は手さぐり」を歌い終わって、ホイットニーが観客の拍手を浴びていたとき、ジョージは自分たち2人の頭上を流れ星が落ちていくのを見た。偶然の感動を分かち合おうとシャノンのほうを見た彼は、彼女がノートに“waiting for a star to fall”と書くのを確かめて、“ああ、彼女も同じ思いなんだ”と思い、同時に素晴らしい曲が出来上がるぞと実感したという。
しかし、ホイットニー・サイドはこの曲を気に入らなかったようで、レコーディングされることはなく、代わりに2人がホイットニーに提供したのが87年ホイットニーにとって4曲目のNo.1となる「すてきなサムバディ」だった。一方、採用されなかった「スター・トゥー・フォール」は自分たちでレコーディングし、大ヒットとなったというわけだ。
ところで、2人は早くから同棲していたのだが、87年の暮れに一度別れている。ホイットニーの2曲のNo.1を生み出し、ソングライターとして脂ののっていた時期ではあったものの、常に一緒に過ごしていたためか2人の間にいつしか溝が生まれ、ジョージのほうが家を出たのだった。が、お互いにしっくりとこない生活を続けるうちに、ジョージのほうから復縁を申し出ている。「2人が一緒にやってきたことが間違いではなかったことに気づいたんだ。それを表現するのは難しいけど、答えは2人で作った歌の中にあるよ」とジョージが言えば、シャノンも「2人がわかり合っていること以外に素敵なことはないはずよ」と応じ、長い春に終止符を打って結婚することとあいなった。この復縁のきっかけになったのが、他でもないこの「スター・トゥー・フォール」なのだ。こうして2人はアーティストとしても、88年、ビルボードのTOP5ヒットを記録したというわけだ。
ちなみに、日本ではこの曲はヒットするまでに多少の時間を要したが、いまでもFMなどでオンエアされるエバーグリーンとなっているし、ヒット後、映画「スリー・メン・アンド・リトル・レディ」の挿入歌としても使用されている。