2010年

11月

27日

Vol.20  エアロスミス「ラブ・イン・アン・エレベーター」 2010.11.27

1987年の復活第2弾アルバム『パーマネント・ヴァケーション』の大ヒットを受け、多大な期待を背負って発表されたアルバムが89年の『バンプ』。その第1弾シングルとして当然のように大ヒットをが“義務づけられていた”のが、この「ラブ・イン・アン・エレベーター」だった。

 

カナダのバンクーバーで進められたレコーディングかなりなごやかだったようで、ジョー・ペリーはロールスロイス、スティーヴン・タイラーはポルシェをレンタカーでハイヤーし、川べりにログ・キャビンを借りて釣りをしたり水遊びをしたりと、リラックスした雰囲気で進められた。かくの如くハードロック・アーティストらしくないエピソードが続々と流された後に完成したアルバムだっただけに、その発表の現場の雰囲気は期待と不安が入り混じった、というものだったようだ。

 

しかし、周囲の不安をヨソに、この第1弾シングルはビルボード・チャートで最高位5位を記録する大ヒットとなり、アルバムの“トップバッター”の役目を十分に果たした。そのヒットに寄与したもののひとつが、エレベーターの中でのラブ・アフェアを映像化したビデオだ。このビデオ・クリップ、サンタモニカのホテルに実際にあるガラス張りのエレベーターを使用し、美女500人のエキストラが下から見守るなかスティーヴンの乗ったエレベーターが降りてくるという想定だったのだが、あまりにもや慈雨尼が多かったためにロケは中止になってしまった。おかげでエレベーターの中で美女と絡むシーンが多くなり、ロマンチックでエロチックなクリップが出来上がったというわけだ。スティーヴンいわく「イチかバチかのスリルを味わってるときのセックスが最高さ。タイトルがハッキリしてれば、ビジュアルもはっきりしてくるもんさ」

 

ともあれ、この曲の快進撃で勢いがついた『バンプ』は大ヒット。“バンプ・ツアー”も大成功のうちに終わった。15カ国で163日におよんだツアーで、メンバーがプライベート・ジェットに乗って飛行した合計距離は約7万5000キロ。ステージ用機材の運搬トラックはのべ83万キロを走破、という記録も残している。しかし、このツアーが特筆されるべきはその規模ばかりではない。彼らは、このツアーから社会的活動を活発化させている。

 

そのひとつはリサクルのために空き缶回収キャンペーンとコンサートをドッキングさせたこと。ツアーでまわる先の町のFM局と合同で「空き缶を持ってコンサートに来て」と呼びかけ、リサイクルの輪を広げた。これはアメリカにある“WE CAN”という団体との共同企画で、各地のFMの周波数と同じ数の空き缶を持ってきたリスナーのなかからウィナーを決め、バックステージに招待するなどのキャンペーンで、リサイクルの意識を喚起するのに役立ったという。

 

もうひとつは“フード・キャンペーン”。空き缶ならぬ缶詰や保存食品で過程にねむっているものを持ち寄ってもらい、アフリカやアジアの飢餓に苦しむ子どもたちに贈ろうというもので、こちらも大成功だった。

 

さらには、マイカーでコンサートに来るファンのことを意識し、ツアー会場でアルコール飲料を売らない運動を展開したのだが、コレは少し不評だったようだ。ファンのなかには「ビールのないエアロのコンサートなんて考えられない」とか「お題目のように“ドライブ・セーフティ”と叫ぶスティーヴンはおやじクサイ」という意見もあった。エレベーターの中でのラブ・アフェアは“セックス、ドラッグ、アルコール”のロックンロールだが、“ヘルシー、ボランティア、ドライブ・セーフティ”じゃロックンロールじゃない、ということか。

 

もっとも、当のメンバーたちは、それでも「僕たちは誇りを持ってやっている」と理解を求め続けた。いまでも反抗的なメッセージを持つヘヴィメタル・アーティストが多いなか、エアロスミスはこの時期に以前の“バッド・ボーイズ・ロックンロール”のイメージから“ヘルシーな大人のロック”へと完全に変身したのだ。これが奏功して、ハードロック/ヘヴィメタルというカテゴリーから突き抜けた、現在のエアロスミス・ステイタスがあると思う。

 

 

 

 

 

 

 

2010年

11月

25日

2010.11.24 布袋寅泰@リキッドルーム

マンスリー・ライブ・シリーズの4回目。今回は、池畑潤二(ds)、井上富雄(b)とのトリオ編成でのステージだ。

 

布袋によれば「3人なんで、3ピースを着てきました」ということで、3人とも黒のスーツを決めての登場である。で、「今日は楽屋でも博多弁ばかりだから、MCも博多弁になりそうやね」と冒頭で話すので、そんなにリズム・セクションの二人が話しているのかと思っていたら、さにあらず。二人のゲスト・ギタリストも、花田裕之と鮎川誠という博多人だった。

 

注目の演奏は、アタマからストロング・スタイルというか骨太なビートでグイグイ押す演奏が続き、ゲストを迎えた後半はそこにブルージーな色合いが加わった。先月と比べれば、ギター弾きまくり度はかなり高かったが、個人的には今夜の布袋のギターはゲストの土俵に敢えて乗っかっていった印象だった。

 

それとは別に印象的だったのは、「池畑さんとよく飲んでた頃を青春と呼ぶほどまだ大人になったわけじゃないけど」「いよいよ本気で遊べるようになってきた」といったMCで、やはり30周年ライブに向けて、キャリアを積み重ねてきたことの意味を彼なりに総括している時期なんだろうなと思ったし、その総括を変にノスタルジックなものにしないための装置としてもこのマンスリー企画は機能しているんだろうなと思った次第。

ちなみに、布袋&池畑がよく飲んでいた頃、「ウンダベルグ」にハマっていた時期があたそうだが、僕は今でもバーに行くとたいてい「ウンダベルグ」を飲んでいる。

 

2010年

11月

24日

久保田利伸の新作セレクション・アルバムは新録5曲も収録 2010.11.24

久保田利伸が「恋」と「雨」にちなんだ楽曲を集めたセレクト・アルバム『LOVE&RAIN ~LOVESONGS~』を、11月24日にリリースした。

続きを読む

2010年

11月

24日

角松敏生の最新ライブ映像作品は特典映像も見どころいっぱい 2010.11.24

角松敏生のライブ映像作品「TOSHIKI KADOMATSU Performance 2009 "NO TURNS" 2009.11.07 NHK HALL」がDVDとBlu-rayで11月24日に発売された。

続きを読む

2010年

11月

24日

頭脳警察9枚組ボックス・セットをリリース 2010.11.24

頭脳警察のライブCDおよびライブDVDで構成されたボックス・セット「無冠の帝王 -結成40周年記念BOX-」が、11月24日にリリースされた。

続きを読む

2010年

11月

24日

70年代日本ロックの貴重映像満載のドキュメント映画がDVDに 2010.11.24

日本のロック黎明期の貴重な映像を収めたドキュメンタリー映画「ロック誕生 The Movement 70's〜ディレクターズ・カット」が、11月24日にDVDでリリースされた。

続きを読む

2010年

11月

24日

44MAGNUMが昨年のツアーを収めたライブDVDをリリース 2010.11.24

44MAGNUMのライブDVD「LIVE AT ALIVE」が11月24日にリリースされた。

続きを読む

2010年

11月

23日

Vol.19 KISS「DEUCE」 2010.11.23

音楽は、ヒット曲として人を楽しませる以外のパワーを時に発揮することがある。今回は、そんな音楽の効能を紹介してみよう。

 

時は1974年。ミシガン州キャディラックにあるキャディラック・ハイスクーうが舞台だ。74年から75年にかけてのフットボール・シーズンに突入したキャディラック高校フットボール部は当初、さっぱり勝てなかった。アシスタント・コーチは「力はある。こんなはずではない。何かきっかけをつかめば必ず勝てる」と、連敗脱出の糸口を毎日探していた。そんなとき、町の小さなクラブでハードロックのコンサートが行われ、このコーチはウサ晴らしとばかりにそのコンサートに出かけて大いに盛り上がったのだが、そのコンサートの主がデビュー間もないKISSだった。

 

ご存知の通り、当時のアメリカでは“ブードゥーの悪夢”と形容されたメイクを施し、20センチはあろうかというヒールのブーツを履いて、ステージ上で暴れまくるパフォーマンスにすっかり興奮したアシスタント・コーチは、まるで東映のヤクザ映画を観た後の観客のように身体と精神にパワーがみなぎるのを感じた。そこでこのコーチ、ハッとひらめいて、それ以降、部室や練習場でKISSの曲を大音量で流し、選手たちを鼓舞したところ、練習での気合いが上がってきたので試合直前のロッカールームでもKISSを聴いて出陣するという毎日を演出した。すると、なんとチームは7連勝。その後も勝ち星を重ね、このシーズンを優勝という最高の結果で締めくくった。

 

この結果を喜んだアシスタント・コーチは、KISSに宛てて礼状を書いた。なんと言ってもデビュー直後で、まだアルバムがTOP100に入ることがうれしいというようなマイナー時代のKISSだから、この手紙に感動し、ジーン・シモンズとポール・スタンレーは何かこの高校をもっと喜ばせるような企画はないだろうかと考え、その高校の講堂でフリー・コンサートを開きたいと申し出た。これには高校側も大喜びで、即座に開催を決定した。

 

コンサート当日。KISSがいざその高校に行ってみると、生徒全員がKISSと同じメイクをしていたのだ! その上、翌朝、町の歓迎レセプションが開かれたが、そこでは校長、町長、その他列席者のおエライさんまでもが全員メイクをしてKISSを迎えたのだった。こうして、まだマイナーな存在だったKISSは、キャディラックの町では一躍チョー有名なロック・アーティストになったのだった。

 

KISSが全米規模の大ヒットとなった「ロックンロール・オールナイト」をリリースしたのはその1年後のこと。75年に発表されたライブ・アルバム『アライブ』が旋風を巻き起こし、このアルバムから「ロックンロール・オールナイト」のライブ・バージョンがシングル発売されてHOT100の12位まで上昇し、ようやく全米的な知名度を得ることになった。

そのライブ・アルバムのオープニングを飾ったのが「DEUCE」という曲で、デビュー後しばらくは彼らのテーマ曲代わりにライブで演奏されていたナンバーだ。フットボールやアイスホッケーなど、ある程度格闘の要素を持つスポーツでは相手をビビらせる必要から自身を“こわいもの”に見立てることがよくあるが、キャディラック高校フットボール部は、チームを”DEUCE=悪魔・災難“に見立てて相手チームを飲み込み、快進撃を続けることになったというわけだ。

 

KISSは、シングル・チャート上では「ベス」と「フォーエバー」という2曲のTOP10ヒットしか生んでいないが、ハードロック・マーケットのリーダー的存在として歴史に名を残すことになった。また、日本ではアメリカを上回る人気を獲得。クイーン、エアロスミスと並んで、3大ハードロック・バンドとして君臨したのは言うまでもない。キャディラック高校フットボール部と同じく、彼らの演奏に勇気を与えられ、力を与えられて快進撃を果たした高校は日本にも絶対にあったに違いない。

 

 

2010年

11月

22日

2010.11.22 大貫妙子/坂本龍一@人見記念講堂

アルバム「UTAU』リリースに伴うツアー。

ステージにはグランドピアノ1台だけが用意してあって、そこに大貫と坂本が出てきて歌い、演奏するというライブである。シックと言えばシックだし、シンプルと言えば、まあ、確かにシンプルなライブである。

 

印象的なのは、坂本のピアノが和紙に描いた水彩画のような滲み加減で聴こえるのに対して、大貫の歌声はあくまでも輪郭がくっきりとしていたこと。

もちろん、付き合いも古い達者同士の顔合わせだから、相互関係のなかでそういう表現を意識的に選んでいるのかもしれない。

 

ただ、例えば「赤とんぼ」を演奏した後で大貫が「やるたびにどんどん坂本さんのピアノのテンポがゆっくりになっていきますね。そのうち、赤とんぼが飛べないくらいのテンポになっちゃうんじゃないの?」と笑うと、坂本が「僕はゆっくりであればあるほどいいんだけど、歌うほうはゆっくりだと大変ですよね」と答えるシーンがあって、その二人の間の何とも微妙な間合いのとり方がそのまま音楽の具合とも重なっているように感じられて、つまりはそう意識的なものでもないんだろうなと思ったということである。

 

いずれにしても、明晰であるが故に曖昧であることを選ぶ精神と、割り切れないことと向き合うために明解であろうとする精神が交差した地点で生じる音楽は、いま普通に世の中で流通しているポップ・ミュージックとは違う感触の心地良さをまとっていたことは確かだ。

 

 

2010年

11月

20日

Vol.18  ジョージ・ハリスン「セット・オン・ユー」 2011.11.20

ジョージ・ハリスンが87年にリリース、ヒットさせた「セット・オン・ユー」は、アメリカの業界では“センセーショナルなカムバック”として話題を呼んだ。それもそのはずで、70年の「マイ・スウィート・ロード」の全米No.1をはじめ、70年代にはヒット・チャートの常連だったジョージは、81年のジョン・レノン・トリビュート曲「オール・ゾーズ・イヤー・アゴー」のヒット以来、6年半にわたってTOP40に顔を出すことがなかったからだ。そして、この復活劇をカゲで演出したのが、元ELOのジェフ・リンだった。

 

ジェフ・リンはELO時代からビートル・マニアを自称しており、3つの“B”、すなわちベートーヴェン、バルトーク、そしてビートルズに心酔していた。86年に事実上ELOが解散した際のコメントとして、今後の活動に触れ、「当面はプロデュースの仕事をしていく。いつの日かビートルズのメンバーのプロデュースをしてみたいけどね」と語っていたほど。それが実現して、この曲をはじめとするアルバム『クラウド・ナイン』をプロデュースすることになったのだ。

 

後のインタビューによると、直接的なきっかけになったのは86年3月15日に行われた“ハートビート86”という、チャリティ・コンサートでの共演だった。この段階でELOは3人になっており、ライブ活動もままならない状態。そんなところにELOにとっては地元になるバーミンガムでチャリティが行われ、そこにジョージが出演するということで、ジェフ・リンは心ときめかせながら客演を申し出た、ということのようだ。

 

この仲をとりもったのが、イギリスのベテラン、デイヴ・エドモンズ。デイヴとジェフは83年にレコーディングをともにして以来の仲で、デイヴからジョージに「信頼できるヤツがいるよ」と紹介があったというわけだ。

 

このチャリティでの共演から、ジェフがジョージに新作の制作を働きかけ、ジョージも承諾。その日からジェフの頭の中は“どうやったら、このビートルズの英雄を英雄らしくカムバックさせられるか”ということでいっぱいになったという。

 

かくして87年1月からアルバム作りがスタートしたわけだが、ジェフがまず着手したのはマテリアル集めとゲスト集め。ゲストに関してはジョージとジェフの人脈をフルに活用し、エリック・クラプトン、エルトン・ジョン、リンゴ・スター、ジム・ホーン、ゲイリー・ライト、ジム・ケルトナーという、そうそうたるメンバーを確保した。マテリアルについては、ジェフとジョージの共作曲などのほかに、広くカバーものも扱おうということで、ジョージ自身が63年に渡米したときに買ったという、R&Bシンガーのジェイムズ・レイの曲をカバーすることにした。それが、後に全米No.1になる「セット・オン・ユー」だったのだ。

 

この曲のレコーディングに際してジェフ・リンは「ジョージらしさとともに僕のなかにあるビートルズへの思いを込めることに腐心した」と、語っている。すなわち、ジェフ・リンにとっては、この曲のアレンジやプロデュースを通して“ビートル・マニアの自分の主張”を行ったことになる。結果としてこの曲は大ヒット。ジョージは一躍ミュージック・シーンの最前線に返り咲いたのだった。

 

このヒットによって88年1月のロックンロール・ホール・オブ・フェイムの式典であいさつに立ったジョージは「言うことはあまりないよ。だって僕は“静かなビートル”だからね」と言って、参加者を笑わせている。そして、この日が後のビッグ・プロジェクトの出発点ともなった。

 

音楽社交界に顔を出すことが多くなったジョージは、いろいろなイベントで様々な人物と旧交をあたため、またまたジェフ・リンが仕掛人となって希代のスーパー・グループが誕生したのだ。ボブ・ディラン、トム・ペティ、ロイ・オービソン、そしてジョージとジェフから成る覆面バンド、トラベリング・ウィルベリーズ。アルバムは100万枚を超えるビッグ・ヒットとなった。88年、暮れの出来事であった。

 

 

 

2010年

11月

17日

井上陽水の新作を買うならツアー会場へ 2010.11.17

10月17日にスタートした全国ツアーを展開中の井上陽水が、自己最多となる5曲のタイアップ曲を収録したアルバム『魔力』を11月17日にリリースした。

続きを読む

2010年

11月

17日

小田和正が新曲「グッバイ」をリリース 2010.11.17

小田和正がニュー・シングル「グッバイ」を11月17日にリリースした。

続きを読む

2010年

11月

17日

THE MODSのギタリスト苣木寛之のソロ・プロジェクトDUDE TONEが1stアルバムをリリース 2010.11.17

2011年に30周年を迎えるTHE MODSは1月19日にニュー・アルバムがリリースすることがすでにアナウンスされているが、その前にファン層を広げそうな注目作が届いた。

続きを読む

2010年

11月

17日

エレファントカシマシ1年半ぶりのニュー・アルバムを発表 2010.11.17

エレファントカシマシのニュー・アルバム『悪魔のささやき~そして、心に火を灯す旅~』が、11月17日にリリースされた。

続きを読む

2010年

11月

16日

Vo.17  オリヴィア・ニュートン・ジョン&ELO「ザナドゥ」 2010.11.16

 1980年に公開された映画「ザナドゥ」は、いろいろな意味でエポックとなった映画だった。

 

78年に「グリース」で脚光を浴びて、それまでの低迷を脱したオリヴィア・ニュートン・ジョンにとって2匹目のドジョウを狙った主演映画作品であり、ジーン・ケリーが久しぶりにタップ・ダンスを披露するといった話題が先行した期待の映画でもあった。しかし、公開してみると興行成績は伸びず、映画はお世辞にもヒットしたとは言えない状況となった。

ところが、なぜかサントラ盤は大ヒットとなり、シングル・カットされたオリヴィア・ニュートン・ジョンの「マジック」は全米No.1。クリフ・リチャードとのデュエット「恋の予感」は最高位20位を記録。さらに、ELOの「アイム・アライブ」「オールオーバー・ザ・ワールド」はそれぞれTOP20内に入り、ELOとオリヴィアが競演したデュエット曲「ザナドゥ」も最高位8位を記録する大ヒットとなるなど、アルバムは商業的には大成功となったのだった。当時、映画とサントラ・アルバムのヒット状況がここまで違うのは珍しい現象だったのだ。

 

それはともかく、このサントラのプロジェクト。発端はじつはELOのリーダー、ジェフ・リンの結婚にあった。彼の奥方サンディはハリウッドの映画関係社と親交が厚く、ビバリーヒルズのジェフの家、ならびに所属レコード会社であったジェット・レコード社長ドン・アーデン(オジー・オズボーン夫人シャロンの父親)の家では、さかんにホーム・パーティーが開かれていた。そのなかで映画のプロデューサー、リー・クレーマーからオリヴィアを主演にした映画の構想がジェフに話され、音楽制作の依頼を受けることになったのだ。

 

ジェフ・リンは早速、10曲に余る曲を書き上げたが、なかでも主題歌となった「ザナドゥ」はオリヴィアが歌うことを想定してメロディーを練ったものだ。この曲の最後の部分で、ジェフ・リンはオリヴィアに究極の高音を出すことを要求したという。オリヴィアにとってはレコーディングでは初挑戦の音域だったということだが、なんだかプロデューサーとしてヒットを連発していた頃の小室哲哉の手法のようではないか。ともあれ、ELOがバック・トラックを担当しオリヴィアが歌ったこの曲は、イギリスではELOにとってもオリヴィアにとっても初のNo.1ヒットとなったのだった。

 

ちなみに、映画の制作が進む過程でちょっとしたトラブルが発生した。映画音楽を担当するクリエイターが2人いたからだ。ひとりはもちろん、ジェフ・リン。もうひとりはオリヴィアの古くからのパートナー、ジョン・ファーラーだ。当初、2人のクリエイターの役割分担がはっきりしていなかったため、2人とも曲を作り過ぎたのだ。結局、オリヴィアが歌うシーンはジョン・ファーラーが、歌わないシーンにはジェフ・リンがプロデューサーとして起用されてうまく棲み分けが成ったのだが、唯一の例外が「ザナドゥ」だった。それ以外は、レコードのA面がELOでB面がジョン・ファーラー(=オリヴィア・ニュートン・ジョン)とサイドが分けられ、発売元もアメリカがオリヴィア所属のMCA、世界(アメリカ以外)はELO所属のジェットというふうに完璧に分けられ、ELOとオリヴィアが関わったのは「ザナドゥ」のみだった。

 

今やELOの名前を聞いてピンとくるファンは少ないかもしれないが、70年代のTOP40ヒットにおいてはポップス界きっての“スマッシュ・ヒッター”だった。No.1を何曲も輩出するといった派手さはないものの、出すシングルは必ずと言っていいほどTOP40にエントリーされる。いわばアベレージ・ヒッターだったわけだが、それまではバンドのなかにオーケストラを持っているという特異性でヒットを重ねてきたのに対して、この「ザナドゥ」の大成功以降、4人のロック・コンボのみでポップスを表現するという80年代のスタイルを確立させることにもなり、その意味でもELO、とくにジェフ・リンにとってエポック・メイキングなプロダクトだったと言えるだろう。

 

また、オリヴィアの長年のファンにとっては、ジョン・ファーラー以外の「男」とのコラボレーションを興味深く見た人もいただろう。そのジョン・ファーラーとのコンビ、2000年のシドニー・オリンピックの開会式でも息の合ったところを見せつけたが、ここまで長い間、コンビを保っているアーティストとクリエイターというのも、今となっては非常に珍しい関係と言えるだろう。お互いにとって、持つべきは良き理解者ということか。

 

 

2010年

11月

14日

Vol.16  マイク・レノ&アン・ウィルソン「パラダイス〜フットルース愛のテーマ」 2010.11.14

 今でこそポップ・スター総結集のサウンドトラック・プロジェクトは珍しくもなんともないが、その先駆けとなったプロジェクトのひとつが「フットルース」。

1970年代後半に、「サタデー・ナイト・フィーバー」や「グリース」、あるいは「FM」「初体験リッヂモンドハイ」「アーバン・カウボーイ」など、ポップスと映画のタイアップがビッグ・ビジネスになることがわかって同種のプロジェクトがたくさん登場した。が、既発表曲の寄せ集めではもうひとつ魅力に乏しく、やはり全曲新曲を用意しようという意気込みで84年に制作されたのが、この「フットルース」だった。

ケニー・ロギンス、ボニー・タイラー、デニース・ウィリアムス、シャラマーなどが参加したプロジェクトのなかで“愛のテーマ”に割り当てられたのはラヴァーボーイのマイク・レノとハートのアン・ウィルソンという異色のデュエットであり、この曲「パラダイス」は当然シングル・カットされて全米TOP10を記録するヒットになっている。

 

そこで見逃してならないのは、この曲の作者がいまも熱心なファンの多いエリック・カルメンであるということだ。

当時、ゲフィン・レコードとソロ契約を結んだばかりのエリック・カルメンに、名物ディレクターで“再生屋”のA&R、ジョン・カロドナーを通じてこのプロジェクトの話は持ち込まれた。パラマウント映画ではこのプロジェクトに並々ならぬ意気込みで取り組んでいて、“愛のテーマ”についてはすでに3人のソングライターが駄目だしをくらっていた。カルメンは4人目の挑戦ということだったわけだが、即座にOKし、映画の脚本を担当するとともにサントラ曲すべての作詞を手がけたディーン・ピッチフォードと会った。

 

まず、愛のテーマが使用される予定のシーンをラッシュで見て、イメージをふくらませたカルメン。すでに♪Almost Paradise Knockin’on heaven’s door♪というフレーズをディーンが作っていて、ここに曲を付ける作業から始めたという。そして、ピアノでポロポロと弾いているうちにメロディーが完成したのはディーンと初めて会った2日後の深夜だった。明けて翌日、いよいよそのメロディーを発表ということになったわけだが、そのときのようすをカルメンは次のように回想している。

「いままで3人が沈没しているからね。多少は緊張していたよ。で、会議室に入るとパラマウントの偉い人たちや映画のスタッフが15人くらいいたんだ。そのなかで僕がピアノを弾いて男声パートを歌い、ディーンがデュエット相手の女声パートを歌ったんだ。歌い終わったらシーンとしているんだよ。あれっ!?て感じだった。でも、少し遅れて全員から拍手を受けたんだ。なかにはスタンディング・オベーションをしてくれた人もいた。ああ、気に入ってもらえたんだなって思ったよ。でも、一応念のため“この曲、映画に使えますか?”って聞くと、みんなが“もちろん!”と言ってくれた。うれしかったね」

 

ちなみに、エリック・カルメンが最初に見た映画のラッシュにはガイド・メロディーが付いていて、そのメロディーとはフォリナーの「ガール・ライク・ユー」だったそうだ。今思えば、「パラダイス」とはかなり違うイメージだったような気もするが…。さらに笑えるエピソードをもうひとつ。それは、この曲のデュエット候補が、最初はボニー・タイラーとエリック・カルメン自身だったということ。おそらく契約の問題その他で実現しなかったのだろうが、カルメンは「このプロジェクトのために僕に曲を書かせる“エサ”だったんじゃないかな。曲ができた後、いつの間にかマイク・レノとアン・ウィルソンのバージョンが出来上がっていたからね」と笑っていた。そして、「アレンジは僕がイメージしていたものと少し違うけど、映画のシーンには合っていたと思う」と、付け加えた。

 

この「フットルース」のプロジェクト、音楽面では大成功だったが、映画の興行成績という点では失敗だったかもしれない。それでも、サントラ時代の幕を開けたという意味で、歴史に残る作品になったと言えるだろう。

 

 

 

 

2010年

11月

10日

長渕剛が1年ぶりのニュー・アルバムをリリース 2010.11.10

今年6月に、キャリアの集大成とも言うべきボックスセット「30 th Anniversary BOX from TSUYOSHI NAGABUCHI PREMIUM」をリリースしたのに続いて、415曲の着うたフルを一斉配信して話題を呼んだ長渕剛。

7月、8月、10月とシングルをリリースしたのに続いて、11月10日にはほぼ1年ぶりのアルバム『TRY AGAIN』をリリースした。

 

新作は、3曲のシングル曲を含め、全11曲を収録。初回盤には「絆-KIZUNA-」のPVと国際的カメラマン、レスリー・キーとのフォト・セッションのメイキング映像を収録したDVDが付く。

 

12月からはアリーナ・ツアーがスタート。大晦日は沖縄でカウントダウン・ライブを行う。

 

続きを読む

2010年

11月

10日

大貫妙子と坂本龍一およそ13年ぶりのコラボ・アルバムを発表 2010.11.10

大貫妙子と坂本龍一のコラボレーションアルバム『UTAU』が、11月10日にリリースされた。

続きを読む

2010年

11月

10日

カーネーションの直江政広がソロ代表作をデラックス・エディションで再リリース 2010.11.10

カーネーションの直枝政広が2000年に発表した全曲自宅録音アルバム『HOPKINS CREEK』が、発売10周年を記念したデラックスエディションとなって11月10日に再リリースされた。

続きを読む

2010年

11月

10日

Der Zibet25周年記念の新作をリリースして東京・大阪でライブ 2010.11.10

デビュー25周年を迎えるDer Zibetが、11月10日にニュー・アルバム『懐古的未来~NOSTALGIC FUTURE』をリリースした。

続きを読む

2010年

11月

09日

Vol.15 ホワイトスネイク「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」 2010.11.09

 日本において、あるいはイギリスにおいては、ディープ・パープルのボーカリストとして確固たる人気と地位があったデヴィッド・カヴァーデールも、じつはアメリカにおいては1987年の「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」の全米No.1ヒットまでは、ほぼ無名の存在だったと言っていいだろう。

ディープ・パープルの『バーン』がアルバム・チャートのTOP10にランクされたとは言え、それは1974年のこと。77年にホワイトスネイクとしてデビューしてからは、語るべき実績がないまま、いたずらに時を過ごしていたのだ。

 

 転換点になったのは1984年、アメリカのディストリビューションをゲフィンに変えたことだった。

当時のゲフィン・レコードには、後にSMEで“再生屋”として活躍したジョン・カロドナーがいた。エイジアのプロジェクトでプログレおやじたちを立ち直らせ、ジャーニーの再結成を仕掛けた敏腕A&Rである。

ジョンは、デヴィッド・カヴァーデールに対し、アメリカのマーケットにおける成功を約束する代わりに、アルバム制作のイニシアチブを自分に委ねるよう要求したが、この取引は50%だけ達成された。というのも、ホワイトスネイクはヨーロッパでの成功を捨ててアメリカ進出に賭けるだけの思い切りはなかったからだが、そこで採られたアイデアとはアメリカでのリリースに際してはリミックスを行うというものだった。

 

 こうしてゲフィンにおける第一弾アルバム『スラッド・イット・イン』で手応えをつかんだデヴィッド・カヴァーデールは、早速次回作に取りかかった。それが1987年、アルバム・チャートで最高位2位を記録した『サーペンス・アルバス』というアルバム。このアルバムを勝負作と考えたジョン・カロドナーは、オリジナル・バージョンに満足せず、“アメリカ・リミックス・バージョン”の制作を求めた。いわゆるハードロック/ヘヴィメタルの音質よりもポップなロックでアメリカン・マーケットを勝ち取ろうとしたのだった。

 

 鳴り物入り、自信たっぷりでカットしたアルバムからの第一弾シングル「スティル・オブ・ザ・ナイト」は、当時のジョン・カロドナーの弁によれば「この曲がホワイトスネイクこそレッド・ツェッペリンの後継者に相応しいことを証明してくれる」ものだった。が、シングル・マーケットは反応せず、成績としては今イチだった。

 

 これでジョンをいよいよホワイトスネイクをポップなロック・バンドとして売り出そうという発想になっていったわけだが、続く第2弾シングル「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」がバンドの将来を決める崖っぷちの曲であったことも確か。だからこそ、ジョンは二重三重の保険をかけていた。

 

 まず「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」は元々、ホワイトスネイクが82年にイギリスで大ヒットさせた曲だった。すなわち、セルフ・リメイク。また、当時のアメリカではMTVで話題になることがヒットに不可欠だったから、リリース前にPVも用意。さらに、アルバム・バージョンではポップさが足りないと感じたジョンは、シングル用のレコーディングを行うことを決意。なんとメンバーを、オリジナル・バージョンからデヴィッド以外は全員入れ替えてポップなミュージシャンでカラオケを作り、それに乗せてデヴィッドが歌うという、およそハードロック・バンドらしからぬ手法を採用して再録音を行ったのだった。

 

 文字通り背水の陣でリリースされたシングル「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」は見事にアメリカン・チャートを制したわけだが、このポップ版「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」はイギリスでもリリースされ、最高位9位を記録している。

 

 こうしてアメリカのマーケットを手に入れたデヴィッド・カヴァーデールは、この後バンドという形での活動にこだわらず“ホワイトスネイク”を自らのプロジェクトと考えるようになっていった。そして、続くヒットの「イズ・ジス・ラブ」のビデオで競演したトゥニー・キテイン嬢と89年に結婚。ヒット曲、名声、そして幸せな家庭を手に入れたデヴィッド・カヴァーデールにとって、この数年間がまさに“我が世の春”だった。

 

 

 

 

 

2010年

11月

06日

Vol.14 ジョン・ボン・ジョヴィ「ブレイズ・オブ・グローリー」 2010.11.06

1986年に発表したアルバム『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』が1000万枚を超える売り上げを記録し、続く88年のアルバム『ニュージャージー』も700万枚セールスとなり、ビルボード・アルバム・チャートで2作連続のNo.1を獲得したボン・ジョヴィ。11月3日にリリースされたばかりのベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』も好調なセールスを記録。ハードロック/ヘヴィメタルの分野のみならず、広い年齢層にアピールしてきた彼らの根強い人気を改めて見せつけているが、ロック/ポップスの若きリーダーとして活躍したボン・ジョヴィの90年代は、2人のフロントマン、ジョン・ボン・ジョヴィとリッチー・サンボラの映画対決で幕を開けた。

 

リッチーは、アンドリュー・ダイス・クレイ主演の映画「フォード・フェアレーン」のサントラでジミ・ヘンドリックのカバー「風の中のマリー」にソロ参加。

これに対して、ジョンは、エミリオ・エステベス、キーファー・サザーランドの主演映画「ヤング・ガンズ2」にテーマ曲となる「ブレイズ・オブ・グローリー」を提供しただけではなく映画のスコア制作も手がけ、チョイ役ではあるものの、カウボーイ役で友情出演。話題性においてリッチーを上回るものになり、この対決はジョンに軍配が上がったと言われたわけだが、そうした勝負の行方にこだわっていたのは音楽マスコミだけだったようだ。

 

当のジョンは、このサントラ・プロジェクトを“アーティストとしての成長に必要な実験場”と捉えていたようで、リトル・リチャード、ジェフ・ベック、さらにはエルトン・ジョンといった先達たちと刺激的なセッションをしたことで、人間的にも音楽的にも大きく成長した、と後のインタビューで語っている。

また、このときの“カメオ・アピアランス(チョイ役での出演)”をきっかけにして演技の勉強をすることになり、映像エンタテイメントに目覚めた彼が今では俳優としてのキャリアも誇っていることを考え併せると、「ヤング・ガンズ2」のプロジェクトはジョンにとって非常に大きなターニング・ポイントだったと言える。

 

1992年のアルバム『キープ・ザ・フェイス』までの間、ジョンはソロ活動に入っていて、90年から91年はユニークな活動も多くなっているのが興味深いところ。結局、「ブレイズ・オブ・グローリー」は、ゴールデン・グローブ賞においてベスト・オリジナル・ソング賞に輝いたし、アカデミー賞の受賞は逃したもののノミネートされたことで授賞式では映画関係社を前に「ブレイズ・オブ・グローリー」をパフォーマンスしたりと、この時期に映画関係者との付き合いが密になっていったのも想像に難くない。また、サントラで共演したのが縁となって、エルトン・ジョンとバーニー・トーピンのトリビュート・アルバム『トゥー・ルームス』でエルトン・カバーを披露するなど、ファンにとっては違った一面をたっぷりと見ることのできた2年間だった。

 

違う一面と言えば、チャリティ活動を活発に行い始めたのもこの頃からで、バンドとして「メイク・ア・ディファレンス・ファウンデーション」のチャリティに参加したのに続き、個人的には彼自身の母校であるセイヤービル・アホー・メモリアル高校の生徒たちを対象に、音楽が好きで勉学のかたわら音楽活動を行っている将来有望な高校生に奨学金を与え、いいミュージシャンに育ってもらおうという主旨の基金を設立したり、難病で苦しむ子どもたちを救済するチャリティ・コンサートをソロ・アクトとして行ったり。これらの活動が評価され、90年11月には、シルバー・クレフ・アウォードをバンド・メンバーとともに受賞している。

 

さらにはボン・ジョヴィのコンサートに横行していたダフ屋のために、青少年たちが高額のチケットを買っているという実状をファンレターを通して知ると、関係者にはたらきかけてダフ屋を取り締まる州条例の制定に寄与したり(実際にペンシルバニア州では転売を禁止する州条例が誕生・施行された)と、まさに通常の音楽活動を飛び越えたところで、社会現象にもなったのだった。

 

その象徴でもあったのが、ソロ作品でありながら、全米シングル・チャートにおいて5曲目のNo.1になったこの曲だった。

 

 

 

 

2010年

11月

03日

ASKAのニュー・アルバムは恋愛小説集のような仕上がり 2010.11.03

ASKAがニュー・アルバム『君の知らない君の歌』を11月3日にリリースした。

続きを読む

2010年

11月

03日

Chageが新作をリリースして、年末からツアーをスタート 2010.11.03

Chageが11月3日にニュー・アルバム『&C』をリリース。

続きを読む

2010年

11月

03日

竹内まりやがニュー・シングルをリリース 2010.11.03

11月3日に竹内まりやがニュー・シングル「ウイスキーが、お好きでしょ」をリリース。

続きを読む

2010年

11月

03日

甲斐よしひろのDVD BOXは見応え十分 2010.11.03

11月1日、甲斐よしひろが6枚組DVD BOXセット「36年目」をamazon独占でリリースした。

続きを読む

2010年

11月

03日

HARRYが1年ぶりの新作をリリースして、全国ツアーへ 2010.11.03

HARRYが、オフィシャルサイト(http://www.harry-station.com/)の通販限定で、ニュー・アルバム『無常人-MUJOUDO-』を11月1日にリリースした。

続きを読む

2010年

11月

02日

Vol.13 U2「終わりなき旅」 2010.11.02

1987年にリリースされたU2の問題作『ヨシュア・トゥリー』から「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」に続く2曲目の全米No.1となったのが、この「終わりなき旅」。それまでのU2は、アメリカン・マーケットにおいてはTOP40ヒットが1曲のみという、完全なアルバム・アーティストだったが、87年を境にシングル・チャートでも常連となった。

 

デビュー以来、つねに様々な社会問題と正面から向き合ってきたU2だが、この『ヨシュア・トゥリー』には、ボノの強烈な戦争体験が生かされている。

ボノが反戦、反アパルトヘイトを訴えながらツアーを繰り返していた頃、連日のように新聞で報道されたのがエルサルバドルやニカラグアの戦争だったが、ボノは新聞報道では本質はわからないと思い立ち、単身エルサルバドルに向かう。そして、首都サンサルバドールにほど近い村を訪ねていたとき、爆撃が開始された。

そのときの恐怖をボノはこう語っている。

「近くの村を爆撃で吹っ飛ばし始めたんだ。ジェットも来たし、オレは走ろうと思ったんだけど、すくんじゃってからだが動かなかった。村の人々が毎日のように体験している恐怖をオレ自身も味わったってわけさ。しかし、村の人たちは、恐れ知らずというか、勇敢だった。みんなはこう言うんだ。“大丈夫だよ。村の反対側に行けば平気だよ”と。そんな勇敢な彼らの顔を見ていたら、自分が小さな存在に思えたんだ」

 

このときの体験は「ブレット・ザ・ブルー・スカイ」という曲として再現されているが、『ヨシュア・トゥリー』に収録されている各曲は、このエルサルバドル訪問によってインスパイアされたものだ、とボノは語る。

「終わりなき旅」の原題“I still haven’t found what I’m looking for”(=僕が探しているものは、まだ見つけることができていない)に込められたボノの思いは、その後もずっと続いているように思える。戦争に反対し、差別を憎み、平和を訴えかけてきた彼らがいま直面しているのは、内線を続け、対人地雷の恐怖を毎日味わっている世界であり、人間が人間の手によって人間の未来を閉ざそうとしている環境破壊が進む世界であるから。

 

この「終わりなき旅」の大ヒットによって、世界中から認知され、超ビッグ・ネームの仲間入りを果たしたU2は、自身の社会活動の規模も大きくしていった。

ビル・クリントン大統領(当時)と公開討論を行い、クリントンの戦争に関する考え方や人権に対する取り組み方を正すとともに、若者が政治に関心を持ち、その投票活動を促進する“ロック・ザ・ボート”キャンペーンに力を入れていたのは92年のこと。イギリス北部のサリーフィールド原子力発電所付近で行われた原発増設反対デモにも参加し、過激な環境団体として知られるグリーンピースの所有するボート「ソーホー」に乗船して原発によって汚染された泥をかき集めるといった作業にも参加する一方、原発反対の署名運動を行い、メージャー首相(当時)に手渡すパフォーマンスも行っている。

 

ところで、この「終わりなき旅」がヒットしている最中、ローマのある街でこんなことがあった。

ある日の午後8時頃。突然、家の窓がガタガタと音を立てて振動し壁に掛けていた絵は揺れ始め、地震警報が鳴り出したと、住人たちが一斉に警察に通報したのだ。が、警察署では異常は何も認められていない。不審に思った警察が現場に急行して調べたところ、地震の原因は近くのフラミニオ・スタジアムで行われていたコンサートだった。午後8時、U2が演奏を始めたとたんの出来事だったという。

09年には、出身地であるアイルランド、クローク・パークでのコンサートの後、地元住民から苦情を受けたことで騒音のレベルを超えていたことが発覚し、U2は3万6000ユーロ(約380万円)の罰金を請求された。

先日も、360°ツアーを敢行中の彼らがスペインでのリハーサル中の騒音で地元住民の怒りを買い、1万8000ユーロ(約190万円)の罰金を請求されたと現地の新聞が報じた。地元当局が発表した声明文によると、バンドは「深夜までリハーサルを行い、予定時間を2時間も延長し、音量は当局が設定したものを超えていた」ことから罰金を命じられたのだという。

 

さて、U2は去る8月25日にロシアでの初となるコンサートを首都モスクワで行った。観客のなかには元大統領のミハエル・ゴルバチョフもいたそうで、今回の公演ではボブ・ディランの「天国への扉」をロシア人歌手ユリ・シェブチャクとのパフォーマンスで披露するシーンが話題を呼んでいる。ちなみに、モスクワでボノがロシアのメドベージェフ大統領と会談している際、ギタリストのエッジはロシア人宇宙飛行士たちと時間を過ごしていたそうだ。