Vol.48 ポーラ・アブドゥル「あふれる想い」  2011.6.25

 ポップス界には疾風のように現れて疾風のように去っていくアーティストがいる。ヒット規模の大きさ、ブーム化の動き、そして引きの早さといった点から見れば、さしづめ代表格はポーラ・アブドゥルだろう。

 1988年、ヴァージン・レコードからデビュー。3枚目のシングル「ストレート・アップ」が全米でNo.1になり、以来91年までに6曲のNo.1シングルを放ち、デビュー・アルバムとセカンドを2枚連続して1位にするという駆け足でのスターダム獲得。しかし、92年にエミリオ・エステベスと結婚したのを境に(それが原因ということではないだろうが)活動は一気に縮小し、95年にアルバムを発表して中ヒットは記録したものの、印象から言えば92年以降はお見かけしていないという雰囲気だ。特に90年、91年の盛り上がりが凄かっただけに、その後の活動がいかにも地味に映ってしまったということだろう。そして、そのポーラ・ブームの最大のクライマックスとなったのが、今回取り上げた「あふれる想い」である。

 ところで、ポーラ・アブドゥルは、あまり知られていないが“強い女性”なのである。NBAのLAレイカーズでチアリーダーをしていたときに、ダンスの振り付けに才能を発揮し、デビュー前にはジャクソンズ、ジャネット・ジャクソン、ダン・アイクロイドなどの振り付けを担当してポップス界に名前を知られることになる。もちろん、デビュー後の自身のクリップの振り付けも行っているが、あのプリンスが「バットダンス」の振り付けを依頼したときには多忙を理由に断っている。この「あふれる想い」を収録したアルバム『スペルバウンド』を制作するときにも“全国の女性たちに勇気を与えるものにしたい。これまでの女性らしさの概念を断ち切りたい”ということをコンセプトにし、女性から男性に結婚を迫る「ウィル・ユー・マリー・ミー」、解釈の仕方によってはセックスのおねだりのような「パイプをちょうだい」、簡単には別れ話に応じない「ブロウイング・キッシィズ・イン・ザ・ウィンド」など、女性の新しい生き方を提唱する楽曲が多く収録された。この「あふれる想い」も同様で、積極的に恋愛に向かうポジティブな女性を歌った曲。それが、女性だけでなく男性にも支持されてのNo.1獲得だった。

 この時期のポーラ・シンドロームがいかに凄かったかということを実証するエピソードもある。90年当時のアメリカは、スター選手が宣伝するスニーカー欲しさに殺人まで犯すという“スニーカー殺人事件”が起こっていた頃。その最中にポーラ・アブドゥルがLAギアと1200万ドルでCM契約を結んだというニュースが流れると、殺人事件のあおりで株価を下げていたLAギアがウォール・ストリートで10%も値を上げたというのだ。マイケル・ジャクソンが契約したときでさえ株価は変動しなかったというから、どれほど凄いことかわかろうというもの。ちなみに、このときの契約金はNBAのスター選手並み。またアメリカの雑誌の読者投票で「一番キスしたい女性」をアンケートしたところ、ジュリア・ロバーツなど並みいる美人女優を尻目に21%の得票率でポーラが堂々の1位になったこともあった。

 さて、この曲がヒットしてた頃のデートのお相手がエミリオ・エステベス。「あふれる想い」と「ウィル・ユー・マリー・ミー」を耳元で歌って結婚が決まったという伝説もあるが、結婚後ポーラは肥満に悩み、精神的にもかなりダメージを受けて、ついに94年には離婚。そして復帰作『ヘッド・オーバー・ヒールズ』をリリースするも、96年にはスポーツ用品メーカーのオーナー、ブラッド・ベッカー氏と結婚。またまた引退同然の生活を送ることになる。エミリオとの結婚は積極的にアプローチした末の強い女性らしい結婚だったが、ブラッド氏とのときは見合い結婚のようなものだったようだ。パターンは違ったが、やはり破局を迎え、音楽界に復帰してアメリカの人気オーディション番組「アメリカン・アイドル」の審査員を務めた。

 さて、彼女のキャリアの行方は? それは、彼女の恋の行方の先で定まるのかもしれない。