Vol.45  ウィルソン・フィリップス「ホールド・オン」  2011.6.4

 1990年6月1日、この日武道館では19回目となる東京音楽祭が開催された。ボビー・マクファーリン、シニータ、ビル・チャンプリン、ANA、14カラット・ソウルなど、いつになくコンペティターが揃ったこの大会でグランプリを獲得したのが、ウィルソン・フィリップスだった。

 アルバムをアメリカでリリースしたばかり。デビュー曲でもあるグランプリ参加曲「ホールド・オン」が、ビルボード・シングル・チャートをグイグイ上がっている最中だったから、新曲による参加という大会の規定にてらせば、ぎりぎりセーフというところだったかもしれない。ともあれ、日本でのグランプリ獲得というおみやげはアメリカのチャートも後押しし、6月9日にとうとうNo.1に輝く。これは、ビーチ・ボーイズの「ヘルプ・ミー・ロンダ」が全米No.1になってから25年目の快挙となった。なぜビーチ・ボーイズを引き合いに出すかというと、みなさんご承知の通り、ウィルソン・フィリップスの3人のうち2人、カーニーとウェンディの姉妹がビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの娘だからなのだけれど、実のところ、ブライアン・ウィルソン復活の裏にはこの姉妹の存在が大きかったと言っても良さそうなのだ。

 ウィルソン・フィリップスは、ウィルソン姉妹と、ママス&パパスのジョン&ミッシェル・フィリップスの娘であるチャイナから成る3人組だが、最初はこれにママ・キャス・エリオットの娘ヴァネッサ・エリオットを加えた4人組だった。この4人で録ったデモが大プロデューサー、リチャード・ペリーの耳にとまり、デビューへとこぎつけるのだが、その過程でヴァネッサは“声が合わない”という理由ではじかれている。3人にしてみれば、泣く泣く友達を仲間はずれにしてデビューしたのだから成功しないわけにはいかなかった。しかも、リチャード・ペリーは最初、彼女たちをポインター・シスターズのように仕立て上げようとしたという。ところが、最終的なプロデュースを担当したグレン・バラードと彼女たちの話し合いの結果、ポップ・ハーモニーでいこうということになり、「ホールド・オン」は誕生する。そして、見事に大成功をおさめたというわけだ。この成功で、ウィルソン姉妹は、それまで遠ざかっていた父親、ブライアンと再び接触することになったのだった。

 ブライアンは、カーニーが2歳の時に「ディス・ホール・ワールド」のレコーディングに参加させるほど子煩悩だったが、その後ドラッグで精神を病み、四六時中カウンセラーの世話になる状態に陥ってしまう。そして、1979年に彼女たちの母親マリリンと離婚したのをきっかけに、娘2人とは没交渉になってしまったのだった。カーニーによれば、彼女はデビューにあたり父親の意見を聞きたがったりサジェスチョンを求めたりしたが、その頃のブライアンの態度は素っ気なく、まるで自分たちを避けているように見えたという。それは彼女たちが有名になった後も続いたそうだが、それでもメジャーになればなるほどプレッシャーを感じたり周囲の思惑に振り回されたりすることが増え、彼女たちはブライアンのサジェスチョンを必要とすることが多くなったという。そして、自分たちに振り向いてくれない父親に対して、カーニーは歌でメッセージを送ることを決意する。2 ndアルバム『シャドウズ・アンド・ライト』に収められた1曲「フレッシュ・アンド・ブラッド」で♪パパが私たちに連絡する妨げになるものは何も無い。あなたを笑わせたい♪と歌い、ついに93年にはカーニーとウェンディが揃ってブライアンのセルフカバー「ドゥ・イット・アゲイン」を共演。97年にはウィルソン・フィリップス解散後の2人の再出発アルバム『マンデイ・ウィズアウト・ユー/ウィルソンズ』をブライアンが完全バックアップするまでになった。「ホールド・オン」が親子の絆をつなぎ直したのだった。