Vol.44 ジェーン・チャイルド「ドント・ウォナ・フォール・イン・ラヴ」  2011.5.28

耳のピアスから鼻のピアスに連なったゴールドのチェーン。くるぶしまで伸びた長い髪を細かく編み込みつつ、頭のてっぺんはツンツンとおっ立ったヘア・スタイル。サリーのようなルーズなドレス。どれをとっても「個性的」という以上の衝撃であったジェーン・チャイルドの登場は1990年のことだった。

 カナダのトロント出身で、若い頃からアーティストになると決めて、ようやくデビューの幸運をつかんだのは89年になってからだった。そして、90年にはデビュー・アルバムを発表、第一弾シングル「ドント・ウォナ・フォーリン・ラヴ」がビルボードのシングル・チャートで2位まで上がり、一躍注目されることになった異色のシンガー、ジェーン・チャイルド。まさに「異色」という言葉がついてまわったジェーンのキャリア。まさに不思議な女性アーティストであった。

 さて、才能がありながらデビューまで時間を要したのには理由がある。彼女は何もかも自分でやらなければ納得しないタイプで、デビューに際しても、セルフ・プロデュースで、自分が作った曲を自分の思うように歌いたいという要求を出したという。それが、まったく知名度のない新人からの要求だったから、各レーベルは彼女との契約に慎重になった。加えて、奇抜なファッションと奇抜なルックス、彼女の作り出す曲はまさにボーダーレスで、ロックもあればR&Bもあるし、ダンス・チューンもあれば、深いメディテーション系の曲もあるという、良く言えばバラエティ豊か、悪く言えばまとまりがないということで、なかなかデビューのチャンスをつかめないでいたのだ。そんな彼女にとって幸運だったのはマドンナのヒットとシニード・オコナーの登場。今で言えば「自立した女性」ということになるのだろうが、90年当時の感覚で言えば、「生意気な女」「理屈っぽい女」、あるいはノン・ジェンダー・タイプの女がウケていた時期だったから、ワーナーのA&Rマンはこの時代、こういった女がウケるかもしれないと考えたのだった。そして、ジェーンに対して、全曲自作でセルフ・プロデュースによるアルバム作りを認め、好きなように創作活動をして良いというお墨付きを与え、デビューということになったわけだ。

 こうしてジェーンは一人でコツコツと作りためたデモ・テープを完成させる仕事に没頭し、アルバムのリリースを迎えた。ワーナーはプロモーションの一環として「ドント・ウォナ・フォーリン・ラヴ」をシェプ・ペティボーンにミックスさせ、クラブ方面でのプロモーションを強化、あたかも「ダンス・シーンに強力な新人登場」といったうたい文句で売り出しを図った。その狙いは当たり、ジェーンは白人でありながらR&Bチャートを駆け上るという快挙を演じたが、次第にアルバムの他の曲が紹介されるにつれて、R&B方面ではこの曲だけの一発屋的な扱われ方をしたのも事実。また、ダンス・ビートで変わられていながら、その後ろに流れるロック・フィーリングに反応したアメリカ・オルタナティヴ・ラジオが面白がってオンエナしたことで、オルタナ・チャートを上がったりもした。なかなかポップ・チャートに波及しなかったが、一度チャート・インすると、あとはあれよあれよという間にチャートを駆け上り、4月には2位になっている。この年を代表するヒットになったのだ。

 このジェーンの異色ぶりは、とにかく半端じゃない。経歴的に言えば、ポップ・フィールドでデビューする前はカナダでオペラの合唱団の一員であったし、プロダクションからソングライトまですべてを独学で学び、誰の影響も受けていないと言い切るほど、ポップ・フィールドとは無縁の存在。インド文化に傾倒し、「わたしは仏像と会話ができるし、空気の流れを読み取ることができる」と公言する変わり者ぶりを示し、自分のなかから沸いてきた音楽のイメージを決して変えようとはしなかった。それがアバンギャルドなものであっても、ヘヴィメタル的なものであっても正直に音楽にしていく彼女の姿勢は、ビジネスを優先するポップ・フィールドでは長続きするはずもなく、3年のブランクの末に2nd アルバムがリリースされたが、彼女のキャリアはそこまで。デビュー曲の鮮烈なヒットの印象を残してポップ・フィールドから消えていった。じつは90年にプロモーションで来日した折、般若心経にいたく興味を示し、お経のテープを買って帰るほどの執着を見せたが、3年後に発表された2ndアルバムの収録曲「サラスヴァティ」に、お経のリズムだけでなく、その精神世界までが生かされているのを見てもわかる通り、ジェーン・チャイルドはアーティストでありながら哲学者の側面をも持っていた。時代の要求に合わなかったのかもしれないが、ある種の天才である。