Vol.32  ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック「ステップ・バイ・ステップ」 2011.2.26

 ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックという長ったらしいグループ名で彼らがヒット・チャートに登場したのは1988年のことだった。ニュー・エディションを育てた敏腕マネージャー、モーリス・スターが“白いニュー・エディション”を売り出そうということで集められたのがニュー・キッズの5人。結成は84年で、最年少のジョー・マッキンタイアは当時12歳。ようやくレコード契約を得たのは86年。88年にはデビュー・アルバムをリリースするも、そのときの初回出荷枚数はわずかに5000枚。とても後のニュー・キッズ・ブームを予感させるものではなかった。

 ところが、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったティファニーとUSツアーをすることになってから状況が急激に好転。あれよあれよとレコードが売れ始め、気がついてみればアルバム『ハンギン・タフ』はアメリカで900万枚、カナダで250万名、ドイツで70万枚、イギリスで60万枚、オーストラリアで30万枚のセールスを記録し、TOP10ヒットを5曲も輩出した。以来、どこに行っても追っかけがいるという人気ぶりで、“90年代のビートルズ”と言われるようになったわけだ。

 そんななかでリリースされたのが、この「ステップ・バイ・ステップ」だ。90年5月にリリースされ、すぐにチャート・イン。6週目にはNo.1になり、すべてのニュー・キッズ商品が飛ぶように売れたのだった。

 当時の状況を数字で整理してみると、90年の長者番付では芸能界トップで、5人にはそれぞれ100万ドルが支給されており、ペプシコーラの広告に出演した時のギャラは350万ドル。ファンに対するメッセージ・サービスの電話には1週間で10万本のコールがあり、その収益だけで1ヶ月50万ドル。ビデオ「ハンギン・タフ・ライブ」は80万本を売り上げ、マイケル・ジャクソンの「ムーンウォーカー」を抜いて売り上げ新記録を達成した。ちなみにRIAAが公認するビデオのプライチナムは5万本だから、レコードに換算すれば4000万枚規模の売り上げということになる。まさに栄光の歴史を刻んだわけだが、好事魔多し。あまりにも急激に人気が出たためにトラブルも多かった。すなわち、ニュー・キッズを食い物にする、大人たちのマネー戦争だ。

 

 とにかく、ニュー・キッズと名前がつけば何でも売れた時代だったから、USAトゥデイやスター・マガジンは特集本を刊行。バービー人形のボーイフレンドということでフィギュアが売り出され、テレビではニュー・キッズのアニメ版が放送されたり、コミック本が出たり。しかも、そのほとんどの権利関係が整理されていなかったので90年から92年にかけて、ニュー・キッズの周りには10件を超える訴訟問題が発生していた。これは、レコード会社、マネジメント、メンバーの友人、知人、親たちがそれぞれの会社と契約したことが原因。すなわち、マーチャンダイズ権、肖像権などが一本化されていないために起こったトラブルだった。このことが原因となって91年にはグループ名をNKOBと改めて権利関係を整理する努力もなされたが、すでに後の祭り。91年に入ると潮が引くようにニュー・キッズ人気は収束していき、94年のクラブ・ツアーを最後にシーンから消えることになる。

 皮肉なことに、デビュー前にマフィアから活動資金を借りていたことも発覚。嵐が去った95年11月になって、裁判所はニュー・キッズ側にデビュー前の借金60万ドルに見合う財産分与をそのマフィアにするようにという判決を下し、最後の最後までマネー戦争に巻き込まれることになってしまった。

 その間、芸能界での彼らの評判はすこぶる悪く、何人ものアーティストがインタビューのなかで「あんなの音楽じゃない」とか「ただお金のために集められただけ」とか「歌って踊る人形であって、アーティストとは思わない」とかケチョンケチョンにしていたのが印象的だった。

 

 当のニュー・キッズの面々は、90年代も押し詰まってジョー・マッキンタイアとジョーダン・ナイトが相次いで再デビュー。リーダー格だったダニー・ワールバーグは俳優として再びエンタテイメント界の頂点を目指して”ステップ・バイ・ステップ”の挑戦が始めたのだった。