Vol.25  ポール・マッカートニー「ディス・ワン」 2011.1.8

世界のスーパースター、ポール・マッカートニーはなぜか“アメリカでは売れない”というジンクスがある。

と言っても、もちろん他のアーティストに比べれば売れているのだけれど、93年の『オフ・ザ・グラウンド』、97年の『フレイミング・パイ』はともに期待を下回る結果に終わった。

 

その“アメリカでは売れない”というジンクスが生まれたのは、89年のアルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の全世界的成功とアメリカでの不振に端を発している。89年にリリースされたこのアルバム。第一弾シングルに選ばれたのは「マイ・ブレイブ・フェイス」だったが、アメリカでは最高位25位に止まった。ただ、これはある程度予想されたことで、先行シングルとしての役割は果たしたという評価だった。そして、89年9月から13年ぶりに行われたワールド・ツアーのリード・トラックとして第二弾シングルに選ばれたのが、今回取り上げる「ディス・ワン」だったのである。結果的に「ディス・ワン」はイギリス18位となったのをはじめ世界中でヒットしたにもかかわらず、アメリカではなんと最高位94位と、シングルとしては惨敗と言うべき結果だったのだ。

 

このときポールの人気がアメリカでなかったというわけではない。89年12月にはマジソン・スクエア・ガーデン4デイズ公演がソールドアウトし、翌90年7月に打ち上げたワールド・ツアーのなかでもノース・アメリカン・レグは破格の動員を記録した。

また、このツアーではクレジットカード最大手VISAカードがスポンサーだったから期間中はVISAの顔となってアメリカのメディアに出まくったし、この年のグラミー賞では“ライフタイム・アチーブメント賞”を獲得。ハクもつけた。

さらに、コンサートの先々で地球環境保全をはじめとする社会福祉事業を積極的に行い、菜食主義者普及による地球保全キャンペーンのために10万ドルを寄付したりフレンズ・オブ・アースに25万ドルを寄付したりといった活動も報道された。

そして、何よりも90年4月にはブラジル・リオデジャネイロで開いたコンサートに18万4000人を動員。ギネスブックに“ソロ・コンサートによる最大集客”の記録が載るなど、話題性も抜群だった(ちなみに、ポール以前の記録は、同じくリオデジャネイロで80年1月に行われたフランク・シナトラ・コンサートの17万5000人)。蛇足ながら、90年と言えば日本でも東京ドーム11回公演、イギリスではウェンブリー・アリーナ11回公演というのがあったから、マジソン・スクエア・ガーデンでの4回公演も驚くにはあたらないかもしれない。いずれにしても、1年を通じてポール・マッカートニーは常に話題を提供し続けたわけだが、アルバムはゴールド・ディスク(50万枚)を獲得するのがやっとの状態だった。

 

この「ディス・ワン」は、アルバム発表当時から、アメリカのFM関係者の間では評価の高い作品で「シングルとしてオンエアするのは<マイ・ブレイブ・フェイス>よりも<ディス・ワン>」という声が多数上がっていた。にもかかわらずの不成績だったのだ。そこでキャピトルは矢継ぎ早に「フィギュア・オブ・エイト」をシングル・カットしたが、こちらも最高位は92位止まり。ちまたの盛り上がりのわりにはシングル・ヒットのないアルバムになってしまい、これがポール・マッカートニー“アメリカでは売れない”説のスタートになってしまったというわけだ。続く『オフ・ザ・グラウンド』の第一弾シングル「ホープ・オブ・デリバランス」も83位に止まり、惨敗。『フレイミング・パイ』では、世界的に「ヤング・ボーイ」をシングルとしてプッシュしているなか、アメリカは“この曲ではエアプレイがとれない”と沈黙を守り、入念なリサーチの結果をもとに「ワールド・トゥナイト」をシングル・カットしたが、64位でストップ。ジンクスを消し去ることはできなかった。

 

ポールが全米No.1をとったのは、83年のマイケル・ジャクソンとのデュエット「セイ・セイ・セイ」までさかのぼらなければならない。このありがたくないジンクスを破る日はいつになるのだろう。