Vol.22  スターシップ「シスコはロックシティ」 2010.12.11

60年代アメリカのベイエリアに起こったフラワー・ムーブメント、ヒッピー・カルチャーの中心的存在だったジェファーソン・エアプレインも、80年代に入るとロックをビジネスとする時代の流れに合わせて少しずつ変化することを余儀なくされていた。74年にメンバー・チェンジをしたのをきっかけに、ジェファーソン・スターシップと改名したのに続き、85年に中心メンバー、ポール・カントナーが脱退したタイミングでスターシップと再び改名。そのスターシップ初のシングルがこの「シスコはロックシティ」だった。

 

マーティン・ペイジと、エルトン・ジョンの相棒、バーニー・トービンとの共作曲に、バンドのプロデュースを担当したピーター・ウルフとデニス・ランバートが手を加えることで完成したこの曲は、1985年11月16日、ビルボード・シングル・チャートのトップに立った。なんと、これが20年の歴史を持つバンドにとって初のNo.1である。

 

メンバーのクレイグ・チャキーソとミッキー・トーマスは、ミシガンでコンサートを終え、連れ立ってホテルに戻る車中で何気なく聴いたカーラジオで、この曲がビルボードのNo.1になったことを知った。

もちろん、この曲がチャートを上昇していることは知っていたが、前週は5位で、上には1位の「マイアミ・バイスのテーマ」をはじめ「パートタイム・ラバー」や「セイビング・オール・マイ・ラブ・フォー・ユー」などがあって、とても1位になれるとは思っていなかったそうだ。

だから、二人は余計に興奮し、ホテルの駐車場でクルマをスピンさせて喜びを表現していたが、そのうちにあやまって壁に激突。駆けつけた警官には事情を説明して許してもらったということだが、警官は捨てゼリフのように「もう2度とNo.1ヒットが出ないことを祈ってるよ」と、つぶやいたそうだ。もっとも、この警官の祈りは通じず、続く「セーラ」でもスターシップはNo.1を獲得した。

 

ところで、この曲、サンフランシスコのご当地ソングのように言われているが、最初からそれを狙って作られた曲ではない。曲中に聞こえてくるラジオDJ(その声は本物のベテランDJ、レス・ガーランド)が、「ゴールデンゲイト・ブリッジを見ながら、ゴージャスに晴れ渡った土曜日にお送りしています。あなたのフェイバリット・ステーション、あなたのフェイバリット・ラジオ・シティ。そう、寝ることのない、ベイエリアのロックシティからお届けしています」としゃべっていることから、ロックシティ=サンフランシスコとなったわけだ。以来、サンフランシスコの観光協会もこの曲をいろいろなキャンペーンのイメージソングに使って、街の曲として定着させていった。

 

そうしたキャンペーンのひとつに“ケーブル・カー救済支援活動”がある。サンフランシスコの街中を走るケーブル式路面電車は1873年に開通した歴史のあるもので、ユニオン・スクエアからフィッシャーマンズ・ワーフまでの2路線とマーケット・ストリートからポーク・ストリートまでという全3路線は街のシンボルのひとつだったが、利用客の減少と交通渋滞により廃止が検討された。しかし、ケーブル・カーは市の財産ということで、スターシップの曲を使った大キャンペーンが展開され、おかげで市民からのカンパも集まり、ケーブル・カーは生き延びたのだった。

 

また、プロ・スポーツの応援でもよく使われる。NFLのサンフランシスコ・フォーティーナイナーズのホーム・グラウンド、キャンドルスティック・パークでこの曲がオンエアされると観衆の大合唱になるという具合で、まさにご当地ソングになっているわけだ。

 

ちなみに、これほど愛されている曲だから、選挙のときにも好んで使われるらしい。さらに言えば、スターシップ3曲目のNo.1ソング「愛は止まらない」もしばしば選挙運動の支援ソングとして使用されている。ボーカルのグレース・スリックが政治に対して並々ならぬ意欲を見せているからなのかどうかわからないが、いずれにしてもポップスを使用するところに我が国とは違う政治環境が見て取れる。