Vol.18  ジョージ・ハリスン「セット・オン・ユー」 2011.11.20

ジョージ・ハリスンが87年にリリース、ヒットさせた「セット・オン・ユー」は、アメリカの業界では“センセーショナルなカムバック”として話題を呼んだ。それもそのはずで、70年の「マイ・スウィート・ロード」の全米No.1をはじめ、70年代にはヒット・チャートの常連だったジョージは、81年のジョン・レノン・トリビュート曲「オール・ゾーズ・イヤー・アゴー」のヒット以来、6年半にわたってTOP40に顔を出すことがなかったからだ。そして、この復活劇をカゲで演出したのが、元ELOのジェフ・リンだった。

 

ジェフ・リンはELO時代からビートル・マニアを自称しており、3つの“B”、すなわちベートーヴェン、バルトーク、そしてビートルズに心酔していた。86年に事実上ELOが解散した際のコメントとして、今後の活動に触れ、「当面はプロデュースの仕事をしていく。いつの日かビートルズのメンバーのプロデュースをしてみたいけどね」と語っていたほど。それが実現して、この曲をはじめとするアルバム『クラウド・ナイン』をプロデュースすることになったのだ。

 

後のインタビューによると、直接的なきっかけになったのは86年3月15日に行われた“ハートビート86”という、チャリティ・コンサートでの共演だった。この段階でELOは3人になっており、ライブ活動もままならない状態。そんなところにELOにとっては地元になるバーミンガムでチャリティが行われ、そこにジョージが出演するということで、ジェフ・リンは心ときめかせながら客演を申し出た、ということのようだ。

 

この仲をとりもったのが、イギリスのベテラン、デイヴ・エドモンズ。デイヴとジェフは83年にレコーディングをともにして以来の仲で、デイヴからジョージに「信頼できるヤツがいるよ」と紹介があったというわけだ。

 

このチャリティでの共演から、ジェフがジョージに新作の制作を働きかけ、ジョージも承諾。その日からジェフの頭の中は“どうやったら、このビートルズの英雄を英雄らしくカムバックさせられるか”ということでいっぱいになったという。

 

かくして87年1月からアルバム作りがスタートしたわけだが、ジェフがまず着手したのはマテリアル集めとゲスト集め。ゲストに関してはジョージとジェフの人脈をフルに活用し、エリック・クラプトン、エルトン・ジョン、リンゴ・スター、ジム・ホーン、ゲイリー・ライト、ジム・ケルトナーという、そうそうたるメンバーを確保した。マテリアルについては、ジェフとジョージの共作曲などのほかに、広くカバーものも扱おうということで、ジョージ自身が63年に渡米したときに買ったという、R&Bシンガーのジェイムズ・レイの曲をカバーすることにした。それが、後に全米No.1になる「セット・オン・ユー」だったのだ。

 

この曲のレコーディングに際してジェフ・リンは「ジョージらしさとともに僕のなかにあるビートルズへの思いを込めることに腐心した」と、語っている。すなわち、ジェフ・リンにとっては、この曲のアレンジやプロデュースを通して“ビートル・マニアの自分の主張”を行ったことになる。結果としてこの曲は大ヒット。ジョージは一躍ミュージック・シーンの最前線に返り咲いたのだった。

 

このヒットによって88年1月のロックンロール・ホール・オブ・フェイムの式典であいさつに立ったジョージは「言うことはあまりないよ。だって僕は“静かなビートル”だからね」と言って、参加者を笑わせている。そして、この日が後のビッグ・プロジェクトの出発点ともなった。

 

音楽社交界に顔を出すことが多くなったジョージは、いろいろなイベントで様々な人物と旧交をあたため、またまたジェフ・リンが仕掛人となって希代のスーパー・グループが誕生したのだ。ボブ・ディラン、トム・ペティ、ロイ・オービソン、そしてジョージとジェフから成る覆面バンド、トラベリング・ウィルベリーズ。アルバムは100万枚を超えるビッグ・ヒットとなった。88年、暮れの出来事であった。